しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 (ガラテヤ4:4-5)
イエス・キリストによって神様を知る前には、私たち人間は、この世のさまざまな原則によって奴隷のように拘束されているのではないでしょうか。それは、旧約聖書以来のさまざまな掟をもっているユダヤ人の人々にとっては、旧約聖書の律法やそれに付随したさまざまな掟でした。また、ユダヤ人の掟ほど強くはないにしても、それぞれの民族は、それぞれの宗教やそれに基づく掟をもっています。たとえば、新約聖書の時代、ローマ帝国の町にはギリシアやローマの神々をまつる神殿があり、その神殿の儀式に参加するのが当然のことだと思われていました。皇帝を神のように崇拝することも、ローマ帝国の東の方では盛んでした。さらに、紀元1世紀の終わりころには、ドミティアヌスという皇帝によって皇帝を神として礼拝することが強制されました。
しかし、イエス・キリストによって神様を知ることによって、人間はそのようなこの世の「基礎的な諸原則」と思われていたものから解放され、自由になることができるのです。この手紙を書いたパウロは「律法」という旧約聖書の掟が絶対的なものであると信じて、それに従って生きていました。しかし、クリスチャンを迫害するためにシリアのダマスコに向かう途中で、天から語りかける復活のキリストに出会いました。そして、人は掟を守ることによって救われるのではなく、キリストを信じることによって救われるのだということを知ったのです。なぜなら、人間はどんなに努力しても神の掟を完全に守ることはできないからです。神の掟を守ることを追求して生きたパウロは、その結果、神の御子イエス・キリストやキリストを信じるクリスチャンを憎んで迫害するようになってしまいました。そして、自分が大きな罪を犯していることに気づいたのです。神の掟に従って生きようとして、結果的には神を愛することも人を愛することもできなくなってしまう、そのような人間の罪にパウロは気付いたのでした。そして、人間の罪を償うために自ら十字架について犠牲となって死んでくださったキリストを信じるようになったのでした。
(12月22日の説教より)