「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
(ルカ11:29)
旧約聖書の預言者ヨナは、嵐の海に投げ出されて大魚の腹の中で三日三晩を過ごします。そして、魚の腹の中で神に悔い改めと感謝をささげた後、奇跡的に生還して、アッシリアの都ニネベに赴きます。マタイによる福音書では「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」という言葉の後に「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタイ12:40)という説明が続きます。おそらく、ルカの方がキリストの元々の言葉を記しており、マタイはそれを補う言葉を挿入したのではないか、と考えられます。
マタイが補足したものであったとしても、この言葉がキリストの意図を正しく説明したものであることは疑いありません。なぜなら、ヨナとキリストとの共通点は、苦難を通して栄光を受けたということであったからです。すなわち、キリストが「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とおっしゃった意味は、「ヨナのように苦難を通して栄光を受けるということ、すなわちキリストが十字架上の死の後に復活するということのほかには、キリストが神の子であるというしるしは与えられない」という意味でありました。
このことは、ある重大な事柄を私たちに教えています。すなわち、キリストを信じるか否かという問題は、キリストのなさった個々の奇跡や教えを信じるか否かというよりも、むしろキリストが人類の罪のために十字架上で死んで復活したことを信じるか否かという問題である、ということです。イエス・キリストについては、人類の罪のために十字架上で死んで復活した方であるという以上に重要なことはないのです。そして、そのことを信じるか否かが、すべての時代のすべての人に問われているのです。
(11月17日の説教より)