あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。(一コリント14:12)
12節には「教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」とあります。パウロは、ここではあえてどの霊的な賜物を求めるべきかを書いていませんが、「教会を造り上げるために」とありますから、聞く人に理解できる言葉を語る力を求めなさいということでしょう。次の13節にありますように、「異言」もその意味を解釈して人に伝えることができれば、それなりに他の人の役に立ちます。しかし、パウロが19節で「教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」と記しているように、クリスチャンの人格を造り上げ、教会という共同体を造り上げるのは、理性によって神様の御心を解き明かす「預言」の言葉なのです。それは、本日の箇所のすぐ前の5節に「異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」と記されていることからも明らかです。
前にもお話しいたしましたように、信仰というものは理性的な要素と感情的な要素の両方を含んでいます。ですから、信仰を証しする言葉から感情的な要素を切り捨ててしまいますと、聞く人にとって理屈はわかるけれども納得できないという結果になることでしょう。反対に、信仰を証しする言葉から理性的な要素を切り捨ててしまいますと、聞く人にとってさっぱりわからないという結果になるか、あるいは何かわからないけれども感動したという結果になることでしょう。何かわからないけれども感動するというのは、人間を間違った行いへと駆り立てるおそれのある危険なことです。パウロは本日の箇所で「わかる」言葉を語ることの大切さを教えています。感情的な要素を切り捨てているのではありませんが、理性的に語ることによって、聞く人に意味を理解させ、聞く人の人格と信仰の共同体を造り上げることを目指しているのです。
(9月15日の説教より)