弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
(ルカ6:40)
この御言葉は、クリスチャンが第一になすべきことを教えています。それは、高ぶって誰かを導いてやろうとするのではなく、自分が弟子として「師」であるイエス・キリストにならうことであります。「修行を積む」という言い方は、キリスト教ではあまり耳慣れない言葉です。ギリシア語原文では「完成する」(カタルティゾー)という動詞が受け身の形で用いられています。したがって、この箇所を直訳すると「だれでも完成されれば、その師のようになれる」ということになります。新約聖書ギリシア語の辞典は、この箇所について「十分に訓練されれば」という訳を提案しています。最近の英語の聖書でも、そのような翻訳が主流になっています。また、「十分に訓練されれば」と訳すことによって、クリスチャンはキリストに訓練されて成長していくということ、すなわち、キリスト御自身がクリスチャンを成長させてくださる、ということが明確になります。日本語の聖書では、口語訳でも新共同訳でも「修行を積めば」という表現が使われていますが、これは、人間が自分の努力で修業を積み重ねてキリストのようになれるという誤解を生む恐れのある翻訳です。そこで、昨年の12月に発行された日本聖書協会の新しい翻訳では、「十分に訓練を受ければ」と改められました。
そこで、皆様もこの箇所を「十分に訓練されれば」または「十分に訓練を受ければ」という意味として理解していただきたいと思います。クリスチャンが第一になすべきことは、自分がキリストによって訓練されることを受け入れるということです。ですから、毎日の生活の中で相手をこう変えてやろうと思う前に、まず自分がキリストに従うことを考えていただきたいのであります。自分を常に十字架のキリストの前に置くように心がけていただきたいのであります。 (8月11日の説教より)