「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」 (ルカ6:37)
この御言葉を「人間は皆、道徳的に不完全なものだから、大なり小なり悪事を行うことを互いに容認しなければならないのだ」という意味だと理解してはなりません。キリストは、この御言葉を道徳と不道徳の区別をあいまいにるすために語られたのではないのです。そうではなくて、人間の罪を最終的に裁く権威のある方は、天の父なる神だけなのだから、自分だけは例外であるつもりで他人の罪を裁いてはならない、という意味なのです。したがって、この御言葉は人を道徳に対して無関心にさせるものではありません。むしろ、人を道徳的に高い水準に保ちつつ、かつ「赦し」というキリスト教的な徳においても高い水準にあるべきことを教えているのであります。クリスチャンは神による罪の赦しということを、常に他者と共有するように心がけねばならないということです。
1911年(明治44年)に天皇暗殺と政府転覆を企てたという罪で、無政府主義者の幸徳秋水ほか12名が死刑に処せられた事件がありました。いわゆる大逆事件です。その事件で処刑された12名の中に、大石誠之助というキリスト教の洗礼を受けた人物がおりました。日本キリスト教会の指導者であった植村正久は、自分の牧会する東京の富士見町教会で「大石誠之助氏遺族慰安会」を開き、大石誠之助に獄中で悔い改めのしるしがあったことを紹介して、彼がルカによる福音書23章に登場する十字架上で悔い改めた盗人のように「死の瞬間に於て、イエスが汝今日我と共にパラダイスにあるべしと云はるゝ声を聴かれたであろう」と語ったと伝えられています。このときの植村正久の説教には、神の裁きの座に目を向けて罪の赦しを他者と共有しようとするクリスチャンの姿勢がよく現れております。 (8月4日の説教より)