わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。      (ルカ8:21)

私たちは、キリストがこの言葉に込められた二つの意図を読み取ることができます。それは、一つには、キリストが母マリアや兄弟たちを特別扱いなさらなかったということです。つまり、この当時とても重要な絆だと考えられていた血縁というものを、キリストは第一に重要なものとはお考えにならなかったということです。

それでは、もう一つの意図とは何でしょうか。それは、「神の言葉を聞いて行う人たち」は、血がつながっていなくても私の家族である、ということです。つまり、キリストは「神の言葉」という新しい絆による共同体の形成を考えておられたということです。そこで、「神の言葉を聞いて行う」ということについてもう少し考えてみたいと思います。神の言葉とは、キリストを指し示す旧約聖書の言葉と、イエス・キリスト御自身によって語られた言葉と、キリストの昇天の後でペトロやパウロのような使徒たちによって語られたキリストを証しする言葉のすべてを含みます。一言で言えば、旧約聖書と新約聖書に記された神の言葉です。この神の言葉を「聞いて行う」者は、キリストの家族という新しい絆をもつことができるというのです。
「聞いて行う」ということをより正確に申しますと、「聞いて、信じて、行う」ということになります。すなわち、キリストの十字架による罪の赦しを聞いて、信じて悔い改め、救われた者として新しい生活をするということです。この「聞いて、信じて、行う」ということは、途中でストップしてはならない一続きの事柄です。つまり、聞くだけで終わってはなりませんし、聞いて信じるだけで、それが生活に反映されない段階で終わってはなりません。もちろん、キリストを信じる信仰が成長するには時間がかかります。ですから、聞くことは聞くけれども信じることはできないとか、聞いて信じるけれどもそれを生活に反映させることはできないという時期が、ある程度続くこともありえます。しかし、一生聞くだけにしておくとか、一生行いは別にしておくというのは、正しい聞き方や信じ方ではありません。神様の導きを受けて、心を開いて聞く人はいつか信じる者とされますし、心の奥深く信じる人はいつかその行いも変えられていくのです。   (7月28日の説教より)