もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 (一コリント12:17-18)
「もし体全体が目だったら」その体は見ることしかできません。「もし全体が耳だったら」その体は聞くことしかできません。もちろん、見ることも聞くことも大切な働きです。しかし、それは一つの働きであって、すべてではありません。全体が目であるようなものは、もはや体とは言えないでしょう。また、全体が耳であるようなものも、もはや体とは言えないでしょう。体というものは、違った働きをするさまざまな部分があってこそなりたつということです。このように言うことによって、パウロはキリストの体である教会においては、違った働きをする部分が必要であるということを教えているのです。キリストの体である教会は、違った働きをする部分によって成り立っているということです。
そのことは、続く19節と20節でさらにはっきりと述べられています。「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。」「すべてが一つの部分になってしまったら」という言い方で、パウロはコリント教会の信徒たちがある一つの働きにのみ熱心であったことを暗に批判していると思われます。それは、礼拝の中で「異言」という特別な言葉を語ることのできる人が偏って重んじられていたという問題です。パウロは「異言」という特定の働きだけが重んじられることのないようにという警告の意味を込めて、「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう」と問いかけています。そして、多くの部分があるからこそ一つの体が成り立つということを示しています。多くの部分があることは、一つの体をつくる妨げになるのではなく、一つの体をつくることに貢献するということなのです。
(5月26日の説教より)