ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
               (一コリント12:3)
 
「イエスは神から見捨てられよ」という言葉が、キリスト教の教会の中で語られたとは考えられません。コリント教会はさまざまな混乱のある教会でしたが、いくら何でも礼拝の中で信徒たちが「イエスは神から見捨てられよ」とは言わなかったでしょう。それでは、なぜパウロはわざわざ「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わない」などと書いたのでしょうか。それは、偶像の神殿でなされた礼拝儀式において熱狂した人々が語ったことの中に、「イエスは神から見捨てられよ」という言葉があったからではないか、と考えられるのです。それは、「神の霊によって語る人」の語った言葉ではなく、キリスト教の教えを憎む人が偶像の神殿で熱狂して叫んだ言葉であった、とパウロは述べているのでしょう。
 そして、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とパウロは述べます。つまり、「イエスは神から見捨てられよ」と語る人とは対照的に、「イエスは主である」と言う人は、真の神の霊である聖霊によって語っている、ということです。これは、言い換えますと、真の神の霊である聖霊によって語っているかどうかは、その語られる内容によってわかるということです。そうすると、普通の人々には語られている内容がわからない「異言」を過大評価しないように気をつけなければならない、ということになります。このようにして、パウロは「異言」について論じる前提として、コリント教会の信徒たちに偶像の神殿で語られていることを思い起こさせて、語りが熱い雰囲気であるかどうかではなく、語られる内容が重要なのです、ということを示しているのです。
                (5月5日の説教より)