自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。 (一コリント11:13)
男と女の装いの違いを強調する13節から16節の議論は、パウロの時代の自然な感覚や習慣に基づいています。すなわち、13節の「自分で判断しなさい」14節の「自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか」16節の「そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません」という言い方は、パウロの時代の人には「そうですね」と素直に受け止めることができるものであったとしても、今日の私たちには「さて、そうでしょうかね?」と疑問を抱かせるようなものになっています。なお、15節の「長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです」という箇所は「長い髪は、かぶり物として女に与えられているのです」という意味で、女が頭にかぶり物をする理由を示そうとしているのでしょう。しかし、これも素直に受け止めにくい箇所です。長い髪がかぶり物の代わりであれば、その上にさらにかぶり物を着用する必要はないではないか、とも言えるからです。
宗教改革者のカルヴァンは今から460年も前に書かれた『キリスト教綱要』という書物の中で、本日の箇所に関連して「これは我々に何ら恒久的規定を課すものではない」と述べています(Ⅳ・10・32)。つまり、パウロがコリント教会の礼拝の秩序を保つために書いた教えであって、いつの時代でも守られねばならない教えではない、ということです。ですから、私たちの志木北伝道所で礼拝のときに女性が頭にかぶり物を着用しなければならないということではもちろんありません。しかし考えて見ますと、現在の志木北伝道所においても、礼拝の秩序を保つためにこうしましょうと決めていることがいろいろあります。たとえば、礼拝の開始時間、礼拝のプログラム、礼拝の役割分担などです。それらは、現在していることを今後もずっと続けなければならないものではありません。正しい理由があれば、手順を踏んで委員会で協議して変更することもできるものです。しかし、さまざまな人が集う教会の礼拝が平和のうちに行われるためには、一定のルールが必要であることも確かです。それは絶対的なルールではなく相対的なルールです。相対的なルールですから変更できないものではありませんが、みんなでそれを守ることを基本にして、平和で恵みに満ちた礼拝を形作っていきたいと思います。
(3月17日の説教より)