あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 (一コリント10:13)
ここには「試練」という言葉が何回も出てきます。「試練」とは原典のギリシア語でペイラスモスという言葉で、これには「誘惑」という意味もあります。主の祈りの中の「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りの「試み」と訳されている言葉も原典ではこれと同じペイラスモスという言葉です。キリストが主の祈りを教えてくださったマタイによる福音書の6章13節やルカによる福音書11章4節では「誘惑」と翻訳されています。それで、今日の説教の中でわたくしは「試練や誘惑」という言い方をしてまいりました。この13節も「試練」と訳されているところを「試練や誘惑」というように「誘惑」という言葉を補って読んでいただくと、意味がよりよくわかると思います。いやむしろ「誘惑」と訳し直した方が、パウロの言いたいことをよく伝えるかもしれません。最新の英語の翻訳はこの箇所を“temptation”(誘惑)と訳しています(NIV 2011、ESV)。そこで、「誘惑」と訳し直しますと、次のようになります。「あなたがたを襲った誘惑で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような誘惑に遭わせることはなさらず、誘惑と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
パウロがこの箇所で考えていた「誘惑」とはどのようなものだったのでしょうか。それは、7節から10節にあるように、偶像礼拝、みだらな行い、キリストを試みること、指導者に不平を言うことなどの悪い行いへと「誘惑」することでした。そして、これらの中で最も深刻なこととしてパウロが考えていたのが偶像礼拝でした。それは続く14節の「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」という勧告の言葉からわかります。偶像礼拝こそ、神の民が直面する最も深刻な「誘惑」なのです。それは、旧約聖書の時代のイスラエルの人々にとってもそうでしたし、新約聖書の時代のコリント教会の信徒たちにとってもそうでした。そして、現代の日本に生きるクリスチャンにとってもそうなのです。 (1月20日の説教より)