わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。
(一コリント10:1-4)
パウロは、イスラエルの人々が出エジプトのときに「雲」のしるしや「葦の海」の奇跡を経験したことを、「皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」たと表現しています。イスラエルの人々は、出エジプトという神様の救いを経験することによって、モーセをかしらとする神の民となりました。それで、「モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」たと言うのですが、ここでパウロがあえて「洗礼」という表現を使っているのは興味深いことです。
言うまでもなく「洗礼」はキリスト教に入信しキリスト教会に入会するときに執り行われる礼典です。しかし、イスラエルの人々がエジプトを脱出したときに、実際に洗礼の儀式を受けたということではありません。「洗礼」というのは、何かを初めて経験するときや新しくある集団の一員になるときに比喩として用いられる言葉です。南の国から雪国に引っ越した人が初めて雪の多い冬を経験すると「大雪の洗礼を受けた」ということになりますし、練習の厳しい部活動に入部した新入部員は「特訓の洗礼を受けた」ということになります。
パウロはイスラエルの人々が初めて出エジプトという神の救いを経験し、新しくモーセをかしらとする神の民に属する者となったということを、比喩を用いて「モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」たと表現しているのです。そして、コリントの信徒たちに、旧約聖書の時代のイスラエルの人々も、あなたがたと同じように「洗礼」を受けて神の民として歩み始めたのですよ、ということを言おうとしているのです。「わたしたちの先祖」という表現もそうでしたが、パウロはあなたがたと同じように「洗礼」を受けたイスラエルの人々に起こった出来事から学ぼうではありませんか、という意味を込めて、「洗礼」という比喩を用いているのです。 (1月6日の説教より)