競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
              (一コリント9:25)

 古代のオリンピック・ゲームに参加するためには10ヶ月の厳しい訓練を受けることが求められており、それに耐えられない選手は参加資格を失いました。コリントで開催されたイストミアン・ゲームでも同じような訓練がなされただろうと考えられています。その厳しい訓練を耐え抜くためには自己管理が必要でした。それと同じように、終わりの日において復活の体と永遠の命を受けるためには、すべてにおいて自己管理をすることが求められるのです。つまり、私たちが日常生活の中でもつ感情や衝動や欲望に駆り立てられて、神様の御心に反するような方向に向かって走ってしまうことのないように、自己管理をすることが求められるのです。もちろん、キリスト教でいう自己管理とは、自分の理性で自分を律するということではありません。自分を神様の聖霊の導きに明け渡して、聖霊の導きに従って歩むという意味での自己管理です。そのためには、絶えず聖書の御言葉に耳を傾ける謙虚さと、聖書の御言葉をとおして神様が語っておられることを聞き取る祈りの生活が求められます。
 古代のオリンピック・ゲームでは、優勝者にゼウス神殿の神官からオリーブの冠が授与されました。また、イストミアン・ゲームでは優勝者にセロリまたは松で作った冠が授与されました。このような植物の葉で作った冠が時間の経過とともに朽ちていくことは、言うまでもありません。ですから、パウロは「朽ちる冠」と言ったのでしょう。そして、それだけでなく、これらの冠が象徴する名誉というものも、長い時間がたてば忘れ去られて消えていくものです。しかし、クリスチャンが終わりの日に与えられる復活の体と永遠の命は、朽ちることもなく、消えていくこともありません。それは、永遠に存続するものです。ですから、パウロは終わりの日に与えられる復活の体と永遠の命を「朽ちない冠」と呼び、それを得るためにクリスチャンは「節制」すなわち自己管理をするのだ、と教えているのです。             (12月30日の説教より)