イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。(ルカ13:12-13)
主イエス・キリストの宣教活動というと、ガリラヤ湖のほとりとか丘の上をまず思い浮かべるかも知れませんが、町々の会堂で安息日の礼拝において御言葉を宣べ伝えることが基本にあったことを忘れてはなりません。ガリラヤ宣教はナザレの会堂での説教から始まり(ルカ4:16-30)、エルサレムに向けて歩み始められてからも、主イエスは安息日に会堂で教えられました(ルカ13:10-17)。
ある安息日の礼拝のことですが、会堂に18年間も腰が曲がったままで体を伸ばすことのできない女性がいました。主イエスは彼女を見て呼び寄せ、その上に手を置かれ、彼女の病気をいやされました。主イエスは御言葉を語るとともに、彼女を長年の病から解放されたのです。主イエスは人々に解放の福音を語り、そのことを目に見える仕方で表わされました。
この主イエスのいやしの御業に対して、会堂長らは安息日の掟に違反していると腹を立てるのですが、主は安息日だからこそ、その束縛を解いてやるべきではなかったかと言われます。安息日、その精神を引き継ぐわたしたちの主日の礼拝は、神がイエス・キリストによって、わたしたちをあらゆる悪しき力から解放してくださった救いの御業を確認し、喜び、讃美する時です。
ところで、ルカはこの日のすばらしい御業の報告の後に、すぐに続けて、主イエスが語られた二つの小さなたとえ―「からし種」と「パン種」のたとえ―を私たちに教えてくれています(ルカ13:18-21)。主イエス御自身も、主イエスの御業も、そこに集まる人たちも、からし種やパン種のように小さく、目立たないのです。けれども、主が共におられ、御言葉が語られ聴かれるところ、神の国はすでに確かに始まっていて、それはやがて、わたしたちの思いをはるかに超えた驚くばかりの成長や実りにつながっていくことを、これらのたとえは約束しているのです。
神の国は人間の努力や進化によって現れるのではなく、徹頭徹尾、神の全能の御業によるものです。わたしたちにできることは、ただ主イエス・キリストの約束を信頼し、喜び、待つことです。成果がすぐに見えてこないことに挫けてはなりません。わたしたちを巻き込んで御業を進めておられる神の御力にいつも望みをおいていたいのです。
(11月11日の高松牧人牧師の説教より)