知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
(一コリント6:19-20)
「代価を払って買い取られたのです」とは、かつては罪と死の奴隷であった者たちが、キリストの十字架上の犠牲という貴い代価によって買い取られて神様のものとされたということでしょう。これは、クリスチャンの体が自分自身のものではなく神様のものであるということを、代価を払って奴隷を買い取るというたとえで説明しています。そして、19節と合わせますと、クリスチャンの体は聖霊が宿ってくださる神殿であり、キリストの十字架上の犠牲という貴い代価を払って買い取られたものであるから、クリスチャンの体はもはや自分自身のものではなく、神様のものであるという大変重要な事実を述べているのが分かります。それに基づいて、パウロはクリスチャンがいかに生きるかということについて、一つの簡潔な勧めをしています。それは「自分の体で神の栄光を現しなさい」ということです。
「栄光を現しなさい」と訳されている言葉は、ギリシア語原典ではドクサゾーという動詞の命令形で、英語の聖書の多く(KJV、NASB、RSV、NRSV)はこの言葉をglorifyと訳しています。日本語の聖書は、新共同訳、口語訳、新改訳のいずれも「栄光を現す(あらわす)」という言葉を用いて訳しています。しかし、原典のギリシア語の意味に従えば、「神の栄光をたたえなさい」と訳す方がよいでしょう。なぜなら、この動詞は、パウロの手紙の他の箇所で「あがめる」(ローマ1:21)、「たたえる」(同15:6、9)、「ほめたたえる」(ガラテヤ1:24)と訳されているように(新共同訳)、第一の意味は、相手に向き合って相手の栄光をたたえることにあるからです。そのように、神様に向き合って神様の栄光をたたえる生活をするときに、周囲の人々に神様の栄光を現すような生き方もできるようになるのです。パウロはコリント教会の信徒たちに、生活全体が神様の栄光をたたえる生活となるようにと勧めているのです。
(7月1日の説教より)