コリントの信徒への手紙一6:15-17
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」 (ルカ15:4)
みなさん、気づかれたでしょうか。このたとえ話で、行動を起こし、動き回っているのは、羊飼いだけです。羊は何もしていません。ただいなくなっただけです。
それは、神様が失われた私たちを捜し求めておられる、しかも熱心に捜し求めておられる、一方的に探しておられるということです。羊飼いは、羊がいなくなったのに気付くとすぐ、羊を捜しに行きました。羊飼いは「いなくなったのはたった一匹、あと九十九匹もいるのだから、ほっておいてもいいか」とは考えなかったのです。見失ってしまった、たった一匹のために、今まで通ってきた道を引き返して、あちらこちらと捜し歩いています。そこは、イスラエルの荒れ野です。ゴツゴツとした岩、乾いた土、切り立った崖の危険な場所です。夜には恐ろしい野獣に襲われるかもしれません。羊飼いの命も危険にさらされます。しかし、そんなことはお構いなしに、ただひたすら一匹の羊を求めて羊飼いは、捜し求めるのです。その姿は、イエス様、神様の姿をあらわしています。
どんなことをしても探す、何があっても探し出す、見つかるまで探し続ける姿です。
かつて、アダムとエバは、罪を犯しました。それまで、人間と神様とは、心と心とが通いあっていたのに、人間は神様を避けて身を隠しました。それが、罪のもたらした悲しい結末でした。罪は、神様と人間との間の信頼を損ない、親しいまじわりを断絶しました。罪を犯したアダムとエバは、その時、神様に見捨てられても当然だったのですが、神様は、神様に背いて身を隠した人間をも、お見捨てになりませんでした(創世3:8-9参照)。
神様は、人類の歴史のはじめから神様から離れて見失われた人々を捜し求め、呼び求めていてくださったのです。そして、神様は、失われた私たちを取り戻すために、ひとり子であるイエス様を遣わしてくださいました。
(6月17日の鈴木神学生の説教より)