コリントの信徒への手紙一6:7-8

そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。
それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。

 「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」という言葉は、非常に挑戦的に響く言葉です。コリントの信徒たちは、お金や財産に関する問題があれば、クリスチャン同士のことであってもこの世の裁判所に訴えるのは当然だと考えていたことでしょう。そして、裁判所に判決を出してもらえば問題は解決すると考えていたことでしょう。ところが、パウロによれば、それはまったくクリスチャンの道に反するというのです。クリスチャンの道は、むしろ不義を甘んじて受けること、奪われるままでいることだというのです。コリントの信徒たちは、おそらく驚きをもってパウロのこの言葉に接したことでしょう。そして、皆様もまた驚きをもってこの言葉を読まれたのではないでしょうか。非常識で非現実的な言葉だと思われたのではないでしょうか。

 確かに、もしクリスチャンの受ける救いや祝福がこの世のものであるならば、パウロの言っていることは到底理解できないことです。しかし、前に2節の「聖なる者たちが世を裁くのです」という言葉についてお話したときにも申しましたように、パウロは常に終わりの日にクリスチャンが受ける永遠の命と栄光とを考えているのです。そのことは9節で「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」と言っていることからも分かります。「神の国を受け継ぐ」とは、終わりの日に神の国の相続者として、神の子キリストと同じ永遠の命と栄光とを受けることであります。キリストと同じ永遠の命と栄光とを受けるためには、キリストが歩まれたように、苦しみの道を歩むのが確かな道であることは言うまでもありません。パウロはフィリピの信徒への手紙で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3:10-11)と記しています。
   (5月27日の説教より)