聖 書 コリントの信徒への手紙一5:9-11
わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、
その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
この言葉から、コリント教会の信徒たちが「みだらな者と交際してはいけない」という前の手紙に書かれたパウロの命令を、どのように誤解あるいは曲解したかということが想像できます。すなわち、彼らは次のように考えたのではないでしょうか。「コリントの町には『みだらな者』がたくさん住んでいるから、『みだらな者と交際してはいけない』のであれば、コリントの町の人々と交際することはできなくなる。コリントの町に住んでいる限り、そのような命令は実行不可能である。そういう実行不可能な命令をあえて書いてくるのは、パウロが現実を認識していないからだ。それゆえ、そのような命令に従う必要はない。」もし、コリントの信徒たちが謙遜な思いでパウロの命令を受け止めていたならば、このようには考えないで、パウロの真意を汲み取ろうと努力したことでしょう。彼らの中には、自分たちの方がパウロよりも優れた者だという高ぶった思いがありましたから、「みだらな者と交際してはいけない」のであれば、コリントでは生きていけないと言って反発したのでありましょう。
パウロは前の手紙で「みだらな者と交際してはいけない」と書いたのは、「この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません」と自分の意図を説明しています。「この世の」という説明をつけたのは、明らかに後の11節にあるように「兄弟と呼ばれる人」すなわち教会の信徒と区別するためであります。教会の信徒でなく、この世に属する人々に、「みだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たち」が多いのは当然であって、もしそのような人々と一切つきあってはならないのであれば、世の中から出て行かねばならないことになる、それくらいのことは私にも分かっています、とパウロは述べているのでしょう。 (4月15日の説教より)