キリストに結ばれて逝去された方々を記念する召天者記念礼拝。16名の当伝道所会員・客員について覚えました。
聖 書 フィリピの信徒への手紙1:21-24
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
「死ぬことは利益なのです」とは、一体どのような意味なのでしょうか。少し後の23節後半で、パウロは「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と記しています。すなわち、この世の肉体が死ぬことによって、「この世を去って、キリストと共に」いることになるので、それがパウロにとっては「利益」であり「望ましい」と言うのです。これは、キリストと結ばれたクリスチャンの魂が、肉体の死によって天におられるキリストのもとに召されるということを意味しています。
また、パウロは次のようにも記しています。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」(二コリント5:6-8)「体を住みかとしている」とは、この地上で肉体をもって生きているということです。人間がこの地上で生きている限りは、キリストと完全に一致することはできません。人間はキリストに逆らう罪を持っており、完全にキリストの意思を自分の意思とすることはできないからです。そして、「体を離れて、主のもとに住む」とは、クリスチャンの魂が、地上の肉体の死の後に「主のもと」すなわち天におられるキリストのもとに召されて、そこで安らぎを得ることを意味しています。
これらの聖書の箇所に基づいて、17世紀のウェストミンスター信仰告白の32章は、次のように告白しています。「人間の体は、死後、塵に帰り、朽ち果てる。しかし、不死の実在を持つ彼らの魂(それは死ぬことも眠ることもない)は、それを与えられた神に直ちに帰る。義人の魂は、そのとき完全に清くされて、最高の天に受け入れられ、そこで彼らの体の完全な贖いを待ちながら、光と栄光の内に神の御顔を見る。また、悪人の魂は、地獄に投げ込まれ、そこで大いなる日の裁きを受ける身となって、苦しみと完全な暗黒の中にとどまる。(後略)」 (4月8日の説教より)