聖 書 コリントの信徒への手紙一5:6-8
あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
旧約聖書の過越祭は、出エジプトという神の救いの御業を記念し感謝する祝祭でありました。そして、この箇所の「過越祭を祝おうではありませんか」という言葉がクリスチャンの生活全体を指すものだとしますと、パウロはコリント教会の信徒たちに、キリストの十字架と復活という神の救いの御業を記念し感謝する祝祭のような生活をしようではありませんか、と呼びかけていることになります。古代の教父クリュソストモスはこの箇所について、与えられた善きもののゆえにすべての時がクリスチャンにとっては祝祭なのである、という意味のことを述べています。旧約聖書の過越の祭りは、一年のうち一週間でした。しかし、クリスチャンにとっては一年間全部が、キリストによる罪と死からの解放を記念し感謝する祝祭のような毎日なのであります。
パウロはこの8節の勧めの言葉を記す前に、「キリストが私たちの過越の子羊として屠られたからです」と、感謝の生活の根拠を実に簡潔に記しています。キリストの十字架の出来事です。この簡潔に記された事柄がいかに重要で決定的であるかを知っていくことこそ、信仰生活の深まりであります。パウロはコリントでの伝道を始めたときに「イエス・キリストそれも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(一コリント2:2)のでありました。十字架がなければ復活もなかったのですから、極論すれば十字架こそすべてであると言ってもよいでしょう。パウロはなぜ十字架こそすべてと考えたのでしょうか。それは十字架こそが、知れば知るほど恐ろしく深い人間の罪というものに対する唯一の解決であると認識していたからでしょう。コリント教会の様々な問題が示しておりますように、罪にはクリスチャンや教会の中にもいつの間にか入り込み深く根を張るような恐るべき力があります。その恐るべき罪の力に対する唯一の解決がキリストの十字架なのです。キリストの十字架にこそ、恐るべき罪の力を断ち切って清める不思議な力があるのです。 (3月25日の説教より)