聖  書  コリントの信徒への手紙一5:3-5

わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。
つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、
このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。  (一コリント5:5)

「このような者」とは、コリント教会の中のみだらな行いをする者のことです。「その肉が滅ぼされるように」というのを単純に「その人の肉体が滅ぼされるように」と解釈しますと、奇妙なことになります。すなわち、それは「その人がこの世で死んでしまうように」という意味になるからです。実際、コリント教会のみだらな行いをする者は死んでおりませんし、罪を犯した者は死ねばよいというようなことを、パウロが書いているとは考えがたいのです。ですから、その「肉が滅ぼされるように」という場合の「肉」とは、他の手紙にもありますように、人間の古い自我のことを指しているのでしょう。
たとえば、パウロはガラテヤの信徒への手紙で「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5:19-21)と記しています。つまり、人間の古い自我がこれらの悪い思いや行いを生むということです。そして、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ5:24)と記しています。キリストを信じる人は古い自我を十字架につけて殺したということです。したがって、本日の箇所でも「その肉が滅ぼされるように」というのは、「その人の古い自我が滅ぼされるように」という意味でありましょう。
また「サタンに引き渡したのです」とは、教会の交わりの外に出すことを表す、一種の定式・専門用語であると理解するのがよいでしょう。パウロはテモテへの手紙においてそのような意味でこの言葉を使っています(一テモテ1:19-20参照)。そうすると、最後にある「それは主の日に彼の霊が救われるためです」という言葉の意味も明らかになります。すなわち、教会の交わりの外に出すことによって、みだらな行いをする人が悔い改めて本来の信仰を取り戻し、終わりの日の最後の審判のときに救われるように、ということなのでしょう。     (3月11日の説教より)