聖  書  コリントの信徒への手紙一4:4-5

自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。

 「主が来られる」とは、キリストが最後の審判のために再び来られるということを意味しています。これは「日本キリスト教会信仰の告白」の使徒信条の部分で、キリストが「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを裁き給はん」と告白されている事柄です。そのときにキリストが「生ける者と死にたる者」すべてをお裁きになるのですから、そのキリストの裁きを待たないで「先走って何も裁いてはいけません」とパウロは命じます。
 「何も裁いてはいけません」とは、伝道者あるいは信仰者としての奉仕について、善いとか悪いとかいう断定的な評価を下してはならないということでありましょう。「何も裁いてはいけません」といっても、それは教会内で悪いことをする人について「何も裁いてはいけません」ということではないのです。パウロは同じ手紙の中で、コリント教会のみだらな行いをする者を「自分たちの間から除外すべき」(一コリント5:2)と勧告し、「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」(同5:12)と強く迫っています。もし教会内で神の教えに反する悪いことをする人がいても「何も裁いてはいけません」というのであれば、教会は信仰共同体としての正しい秩序を保つことができなくなってしまいます。
 ここでパウロが「何も裁いてはいけません」というのは、一人の伝道者、一人の信仰者に対して最終的判決を下す権限があるのは、最後の審判をなさるキリストのみであるから、自己流の基準で一人の人の伝道や奉仕に対して善いとか悪いとかいう断定的判断を下してはならないということであります。私たちの伝道や奉仕についての最終的な判断は、キリストが再び来られる終わりの日まで保留されているのです。それは、すべてを正しく見抜いて裁くことのできる方は、キリスト以外にはおられないからであります。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」 (1月7日の説教より)