聖書のことば コリントの信徒への手紙一2:12-13
わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
今日でも、キリスト教を信じればビジネスが成功しますとか、人生が充実しますとか言って、成功や自己実現のための手段としてキリスト教が教えられることがあります。そうすると、目的はこの世における満足であって、聖霊によって伝達されるキリストの恵みではありません。このようなあり方とは異なり、パウロは「霊的なものによって霊的なことを説明する」のだと言っています。キリストの恵みは霊的な恵みであって、目に見えるこの世的なものではないのですから、「霊的なものによって霊的なことを説明する」というのは当然のことのようにも思えます。
しかしまた、「霊的なものによって霊的なことを説明する」というのは、日常生活からかけ離れた極めて分かりにくいことのようにも思えます。霊的な恵みを「霊的なものによって」しかも日常生活と結びついた仕方で説明するためにはどのようにすればよろしいのでしょうか。あるビジネスマンのクリスチャンが、キリスト教の信仰は「神様を信じたら商売繁盛するといったご利益信仰のことではない」と言って、次のように語っています。「私が、みなさんに知っていただきたいことは、むしろ、苦しみの中にも喜びがあるということなのです。最近は、不況で次々と企業が倒産しています。その中には、クリスチャンが経営する企業もあります。でも倒産という苦しみの中にも、信仰によって喜び、心に平安が与えられているなら、それこそが、倒産して人生の苦しみの中にある人々には大きな励みになるのではないでしょうか。」つまり、この世の成功や自己実現を達成することのできないときにも、それとは全く違った霊的な恵みがあるのだということを証しすることにより、キリストの恵みを周囲の人々に伝えるということです。「十字架につけられたキリスト」という霊的な恵みは、苦難の中で聖霊によってその恵みを受け、聖霊によってその恵みを証しするという仕方で伝達されるのです。(10月15日の説教より)