説教「神の知恵を語る」
コリントの信徒への手紙一2:6-7

 「十字架につけられたキリスト」という知恵
 パウロは6節前半で「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」と記しています。「信仰に成熟した人たち」という言葉は、ギリシア語のテレイオスという言葉(複数形、冠詞付き)を訳したものですが、この言葉は「成熟した」とか「成人の」という意味であって、「信仰に」という言葉はギリシア語原典にはないものです。ですから、この箇所は口語訳聖書では「しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る」となっており、新改訳聖書では「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります」と訳されています。新共同訳聖書のように「信仰に」という言葉を補いますと、意味が分かりやすくなるようでもありますが、誤解を生む恐れもあります。すなわち、教会の中に「信仰に成熟した人たち」と「信仰に未熟な人たち」とがいるという意味に取れるからです。
 しかし、この箇所でパウロが言おうとしていることは、「信仰に成熟した人たち」と「信仰に未熟な人たち」とがいるということではなく、凡そキリストへの信仰を持っているならばその人は成熟した人だということなのです。そのことは、後の14-15節を見るとわかります。そこでは「自然の人」と「霊の人」という対比が出てきますが、これもキリストへの信仰を持っていない「自然の人」とキリストへの信仰を持っている「霊の人」とを比べているのです。もしパウロがここでキリスト教会の中に「信仰に成熟した人たち」と「信仰に未熟な人たち」がいて、「信仰に成熟した人たち」の間では、「十字架につけられたキリスト」以上の「知恵」を語ると言っているとすれば、前に述べたこととは矛盾する奇妙なことになってしまいます。なぜなら、1章24節の「神の力、神の知恵であるキリスト」という言葉によく表わされておりますように、パウロにとっては「十字架につけられたキリスト」こそが「神の知恵」であって、それ以上の知恵などはあり得ないからです。ですから、この箇所は、この世の人々には愚かなものと思われる「十字架につけられたキリスト」は、成熟した人々すなわちキリストへの信仰を持っている人々の間では「知恵」であり、「十字架につけられたキリスト」を語ることは「知恵を語る」ことになるのだ、という意味なのです。

 このように考えますと、分かりにくい6節前半の意味もよく分かりますし、6節の後半から7節にかけての箇所ともよくつながります。つまり、6節前半の「知恵」とは「十字架につけられたキリスト」のことなのですから、6節後半は、「十字架につけられたキリスト」は「この世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」という意味になります。また、7節は、「わたしたちが語る」「十字架につけられたキリスト」は「隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」という意味になります。ビジネスの盛んなコリントの一般の人々は、この世で成功するための知恵を追い求めていました。また、古代のギリシアには雄弁の術を教えるソフィストと呼ばれる教師たちがいて、それらの人々にとって知恵は立身出世のための手段でした。そのような「この世の知恵」は、自分の地位を守り、人々を支配しようとする「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」でした。ところが、自分を捨て、人々に仕える「十字架につけられたキリスト」という知恵は、そのような「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」とは、まったく対照的なものであったのです。

 「この世の支配者たち」には隠された知恵
 パウロは7節で「十字架につけられたキリスト」という知恵の特徴を、いくつかの印象深い言葉によって説明しています。第一に、それは「隠されていた、神秘としての神の知恵」です。イエス・キリストの十字架と復活という出来事が起こるまでは、それは世界の歴史の中で隠されていました。ただし、部分的には旧約聖書によってイスラエルの民にあらかじめ告げられていたことも事実です。イスラエルの民の子孫であるユダヤ人は、イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。そして、キリストの復活の後も、多くのユダヤ人たち、特に権力者たちはキリストを信じようとしませんでした。信じようとしない人々にとっては、「十字架につけられたキリスト」は依然として隠されたままになっています。それは、「十字架につけられたキリスト」が「神秘」に属する事柄だからです。「十字架につけられたキリスト」は、人間には理解しがたい「神秘」でありますから、ただ神の霊と神の力によってのみ理解し、信じることができるのです。パウロは少し前の4節のところで、自分の伝道が「“霊”と力の証明」によるものであったと記していますし、少し後の10節のところでは「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」と記しています。そのように、「十字架につけられたキリスト」とは、聖霊によって心を照らされて、初めて理解し信じることのできる事柄なのであります。

 「十字架につけられたキリスト」は、第二に「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」でした。ここには、「十字架につけられたキリスト」によって救いを与えようとするのは、世界の始まる前から聖なる神の意思によって定められていたものだということが述べられています。しかも、それは「わたしたちに栄光を与えるため」ですから、「わたしたち」すなわちパウロやコリントの信徒たちが救いを受け、終わりの日に栄光を受けるということも、神の意思によってあらかじめ定められていたということです。パウロは自分を誇る傾向の強いコリントの信徒たちを謙遜にするために、1章27-28節で「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」と諭しました。神は「十字架につけられたキリスト」により救いを与えるということとともに、この世において「無に等しい者」を選ぶということを「世界の始まる前から定めておられた」のです。このような「十字架につけられたキリスト」という神の知恵は、8節にありますように「この世の支配者たち」には理解されませんでした。「この世の支配者たち」はキリストを理解しなかったからこそ、キリストを十字架につけて殺してしまったのです。そして、そのことによって、キリストが人類の救いのために十字架上で死ぬという神の約束が成就しました。ですから、「この世の支配者たち」がキリストを理解しないということも、神の聖なる定めの中に含まれていたと言ってよいでしょう。

 このように、本日の箇所でパウロは「十字架につけられたキリスト」こそが、「この世の支配者たち」には隠された神の知恵であり、コリントの信徒たちをも含めたすべてのクリスチャンが栄光を受けるために、世界の始まる前から定められた神秘だと教えているのであります。そして、そのことから私たちは、真の知恵とは何かということを教えられます。多くの人々がこの世で成功するための知恵を求めるのは、聖書の時代も今も変わりありません。成功し地位を得て豊かになるためにはどのようにすればよいかということを書いた本は、現代の書店の店頭にたくさん並んでいます。そして、ともすればクリスチャンもそのような知恵を求めて生きるようになってはいないでしょうか。また、聖書を読むときに、そのような知恵を求めて読んでいることはないでしょうか。確かに、聖書の中には旧約聖書の箴言のように、人は神を畏れることによって知恵を得て、その知恵によりこの世でも祝福されて生きることができることを教えている箇所もあります。しかし、この世における祝福は、聖書の教える最終的な救いではありません。聖書の教える最終的な救いとは、「十字架につけられたキリスト」を信じることによって与えられる栄光、すなわち罪の赦しと永遠の命なのです。(2017年10月1日の説教より)