聖書のことば コリントの信徒への手紙一2:6-8
しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
「信仰に成熟した人たち」という言葉は、ギリシア語のテレイオスという言葉(複数形、冠詞付き)を訳したものですが、この言葉は「成熟した」とか「成人の」という意味であって、「信仰に」という言葉はギリシア語原典にはないものです。ですから、この箇所は口語訳聖書では「しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る」となっており、新改訳聖書では「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります」と訳されています。新共同訳聖書のように「信仰に」という言葉を補いますと、意味が分かりやすくなるようでもありますが、誤解を生む恐れもあります。すなわち、教会の中に「信仰に成熟した人たち」と「信仰に未熟な人たち」とがいるという意味に取れるからです。
しかし、この箇所でパウロが言おうとしていることは、「信仰に成熟した人たち」と「信仰に未熟な人たち」とがいるということではなく、凡そキリストへの信仰を持っているならばその人は成熟した人だということなのです。そのことは、後の14-15節を見るとわかります。そこでは「自然の人」と「霊の人」という対比が出てきますが、これもキリストへの信仰を持っていない「自然の人」とキリストへの信仰を持っている「霊の人」とを比べているのです。もしパウロがここでキリスト教会の中に「信仰に成熟した人たち」と「信仰に未熟な人たち」がいて、「信仰に成熟した人たち」の間では、「十字架につけられたキリスト」以上の「知恵」を語ると言っているとすれば、前に述べたこととは矛盾する奇妙なことになってしまいます。なぜなら、1章24節の「神の力、神の知恵であるキリスト」という言葉によく表わされておりますように、パウロにとっては「十字架につけられたキリスト」こそが「神の知恵」であって、それ以上の知恵などはあり得ないからです。ですから、この箇所は、この世の人々には愚かなものと思われる「十字架につけられたキリスト」は、成熟した人々すなわちキリストへの信仰を持っている人々の間では「知恵」であり、「十字架につけられたキリスト」を語ることは「知恵を語る」ことになるのだ、という意味なのです。 (10月1日の説教より)