聖書のことば コリントの信徒への手紙二5:16-21
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
若い人たちにキリスト教の教えを伝える働きをしている大嶋重徳先生という方が、クリスチャンである母親からどのようにして信仰を受け継いだかを『おかんとボクの信仰継承』というたいへん興味深い本の中で書いておられます。以下、大嶋先生の文章を引用します。
「ボクが小四になった頃、おかんは、教会の学び会で仕入れてきたらしいキリスト教教理ががっつり書いてある本を持って、鼻息荒く、ボクの部屋に乗り込んできた。
そして、『ええか、重徳。クリスチャンが何を信じているかをこの本で説明するからな。よう聞いとくんやで』と言って、聖書の語る救いの全体像(信仰の骨組み)を本のページに沿って語り始めた。
『神とは何か』『創造とは何か』『人間は何のために造られたのか』『罪とは何か』『十字架による救いとは何か』『信じて義とされるとは何か』『聖化とは何か』『終末とは何か』
おかんの話は、おかん自身も本当にわかってるのか微妙だったけれど、驚くべきことに『罪とは何か』『十字架による救いとは何か』という話をしながら、おかんはボロボロ涙を流し始めたのだ。そして、泣きながらこう言った。
『私はな………。ほんま罪人や。罪を犯して赦されたと思ったら、またすぐ罪を犯してしまう。自分ではどうにもならんのや。重徳、あんたも、お母さんに言えへん罪がいっぱいあるやろ。でもな、イエス様がその全部を十字架で背負ってくれはったんやで………』
教理がっつりの学びを息子にするつもりで乗り込んできたおかんが、自分が話している最中に、自分の罪を示され、十字架の恵みに感動して大泣きし始めたのだ。
その涙の迫力で、教会学校のお話にしか過ぎなかった十字架のイエス様が、急にリアルに迫ってきた。そしてボクはおかんと一緒に泣きながら、イエス様の救いのわざを感謝した。」 (9月17日の説教より)