神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとになられたのです。
  (一コリント1:30)

 「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり」というのは、キリストと一つにされたクリスチャンにとっては、この世の知恵はもはや無価値なものとなり、十字架のキリストこそが神の知恵としてすべてとなった、ということでしょう。また、人間的には知恵のない者が、十字架のキリストという人間的な知恵とは全く異なる神の知恵を得たと言ってもよいでしょう。そして、さらにパウロは「神の知恵」を「義と聖と贖い」という三つの言葉で置き換えています。
 第一に、「義」というのは、キリストの十字架によって罪人である私たちが義とされるということです。すなわち、私たちは自分自身の中には義しさが全くないにもかかわらず、キリストと一つにされることによって、神の前に罪赦されて義とされるということです。
 第二に、「聖」というのは、キリストの聖化の働きによって、汚れた私たちが清められるということです。すなわち、私たちは自分自身として全く汚れた者であるにもかかわらず、キリストと一つにされることによって、キリストの霊である聖霊の働きを受けて聖とされるということです。
 第三に、「贖い」というのは、キリストの救いの御業によって、罪と死の奴隷であった私たちが解放されるということです。旧約聖書では代価を払って奴隷を解放することを「贖う」と言いました。そして、エジプトの奴隷状態からイスラエルの民を解放した神様の御業も「贖い」と呼ばれました。キリストは私たちのために十字架上で死んで復活し天に昇られました。キリストは私たちに代わって「贖い」のためのすべての業をしてくださり、罪と死に勝利して天におられます。私たちは、自分自身は罪と死が支配しているかのような地上におりますが、キリストと一つにされることによって、罪と死から解放され、天国に属する者となったのです。キリストが私たちのために贖いの業を成し遂げてくださったので、私たちは贖われた者となったのです。 (9月3日の説教より)