コリントの信徒への手紙一1:20-21
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
「神の知恵」は人間を裁くだけのものではなく、悔い改めに導き救うものでもあります。すなわち、神様は十字架の福音によって人間を悔い改めさせ救うという深い知恵を持っておられるのです。それが21節後半の「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」ということです。 (一コリント1:21)
この箇所の新共同訳の翻訳は、訂正をする必要があると思われます。なぜなら、ギリシア語原典には「手段」という言葉がなく、新共同訳はそれを補うことによって意味を不正確にしていると考えられるからです。この箇所の原典の意味を忠実に表現しておりますのは、口語訳聖書の方です。すなわち、口語訳聖書では「そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」とあります。新共同訳と口語訳で何が違うかと申しますと、愚かなのが宣教という方法なのか、それとも宣教の内容なのか、ということです。言い換えますと、ただひたすら何かを宣べ伝えるという方法がこの世の知恵から見ると愚かであるということなのか、それともキリストが私たちのために十字架上で死んで復活したという、宣べ伝えている内容自体がこの世の知恵から見ると愚かであるということなのか、ということです。これは前後の文脈から考えれば、明らかに宣べ伝えている内容自体が愚かであるということです。18節には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とあります。これは「十字架の言葉」の内容が滅んでいく者にとっては愚かなものだということです。また、23節でも「十字架につけられたキリスト」という宣教の内容が「つまずかせるもの」「愚かなもの」であると言われているのです。ですから、この世の知恵ある人から見るならば愚かなものである十字架の福音によって、神様は信じる者を救おうとなさったということなのです。(8月13日の説教より)