コリントの信徒への手紙一1:6-7

こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。

 カリスマとは何か
 教会で使われる言葉には、聖書に基づいた独特なものがいくつもありますが、「賜物」という言葉もその一つだと思います。「賜物」と日本語で訳される言葉は、英語ではギフトと訳されます。ギフトというと贈り物という意味です。神様から人間への贈り物という意味でギフトと訳されるわけですが、日本語の「賜物」という古風な言葉よりも英語の「ギフト」という言葉の方がずっと身近なものである印象を与えてくれます。
 それでは、新約聖書の原典では「賜物」にどのような言葉が用いられているかと申しますと、カリスマというギリシア語の言葉です。カリスマというと、現代では日本語になっていると言ってよいでしょう。「あの人はカリスマ性のある人だ」などと言ったりします。これはカリスマという言葉が元々もっていた神様から与えられた預言や奇跡を行う特別な力という意味が広がって「大衆を心酔させ、従わせる、超人間的な資質や能力」(日本国語大辞典)という意味で用いられているのであります。現代ではカリスマという言葉はやや濫用される傾向があり、「カリスマ主婦」とか「カリスマ美容師」などというような言葉も耳にすることがあります。しかし、カリスマとは本来「カリス」(恵み)というギリシア語に由来しており、恵みによって無償で与えられたものを指す言葉です。ですから、神様の恵みを受けている人であれば、いわゆるカリスマ性のある人だけではなく、普通の人であっても「賜物」(カリスマ)を神様から与えられていると言えるのです。私たちはしばしば自分には才能がないとか力がないとか言って、自分の弱さを嘆きがちであります。しかし、よく考えてみると一人一人が神様から「賜物」(カリスマ)をいただいていることに気づかされるのではないでしょうか。

 確証された福音宣教
 使徒パウロは、教会内にさまざまな問題をかかえていたコリントの教会に対して手紙を書くときにも、まず4節で「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と記して、神様への感謝を表すところから書き始めます。そして、その理由を5節で「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」と記すのです。このように、コリント教会は言葉や知識の豊かな教会でありました。それは、この手紙の12章に記されていることからもわかるのですが、さまざまなしかたで祈り、証しし、議論する賑やかな教会であったということです。そして、それに続いて、本日の箇所でパウロは「こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(6-7節)と記しています。
 「キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなった」とは、どういうことでしょうか。これだけではわかりにくいので、少し言葉を補って考えるとよいと思います。すなわち、パウロたちがしたキリストについての証しが、神様の働きによって、あなたがたコリントの信徒たちの間で受け入れられて確かなものとなった、ということです。「確かなものとなった」と訳されているベバイオオーというギリシア語の動詞は、確証するという意味の言葉です。ですから、5節で述べられているように、コリントの信徒たちがキリストについての言葉や知識において豊かにされたという事実が、パウロの福音宣教の有効性を確証するその証拠であるということなのでしょう。
 さきほども申しましたように、コリント教会は分裂や不品行などのさまざまな問題をかかえた教会でした。しかし、そうした問題の多い教会だからといって、パウロは、私たちの伝道のしかたが悪かったからそうなったのだと言ったりはしませんし、ましてやキリストの福音自体に問題があると言ったりはしません。たとえ多くの問題を抱えた教会であっても、キリストを信じる人々の群れがそこに形づくられて、その人々のキリストについての知識や言葉が豊かにされている以上、福音宣教の有効性は確証されていると受け止めてよいのです。これは教会というものを考えるときに大切なことだと思います。まじめな気持ちから出ているのかもしれませんが、「私たちの教会は、あれも悪い、これも悪い」「ここも足りない、あそこも足りない」と言って反省ばかりしていますと、そこにキリストを信じる人々の群れが存在しているということのすばらしさを忘れてしまします。そして、伝道のしかたが悪いとかキリストの福音そのものが固くて古くさいというような話になって、教会がゆだねられているキリストの福音という宝のすばらしい価値を見失ってしまうことになるのです。キリストの福音の絶大な価値に信頼してそれを愚直に宣べ伝えることこそ確かなことだ、という確信が大切です。パウロは、コリント教会の存在そのものを福音宣教の有効性を確証するものとして、きわめて肯定的に受け止めているのです。

 聖霊の賜物を生かす
 パウロがコリント教会の存在を肯定的に受け止めていることは、7節の「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」という言葉にもよく表れています。それでは、「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」とはどのような意味なのでしょうか。パウロが「賜物」という言葉を用いるときには、キリストの救いそのものを指す場合と(ローマ5:15、6:23)、キリストの体である教会を形づくるために聖霊によって一人一人に与えられている異なった働きを指す場合とがあります(一コリント12:4-11、27-31)。この7節の「賜物」はどちらを指しているのでしょうか。パウロは5節で「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」と記して、コリント教会の言葉や知識の豊かさを認めています。そして、7節で「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」と記しているのです。そうすると、この「賜物」とは、言葉や知識の豊かさに対応する具体的な賜物を指しているのでしょう。事実、コリント教会には様々な賜物を与えられた人々がおり、賜物の欠けはなかったのです。ただし、賜物の間のバランスという点では問題がありました。たとえば、普通の人には理解できない異言を語ることが、あまりにも重んじられていたようです。そこで、パウロはどのような賜物を重んじていくべきかという問題を12-14章で論じて、預言の賜物を求めていくようにと勧めています。
 聖霊の賜物は教会の形成のために必要なものですから、教会の中だけのことだと考えられがちです。しかし、はたしてそうでしょうか。そうではないと思います。たとえば、ある人がキリストの福音を力強く語ることのできる預言の賜物を与えられていれば、その人は毎日の生活の中でも何らかの仕方でキリストの福音を力強く証しすることができるでしょう。あるいは、ある人が教会で貧しい人や病気の人を助ける賜物を与えられていれば、その人は日常生活の中でも何らかの仕方で周囲の困っている人々を助ける奉仕ができるでしょう。また、ある人が教会という様々な異なった人々が集まる組織を管理する賜物を与えられていれば、そのまま同じ仕方ではないとしても、何らかの仕方でそれを社会生活に生かすことができるでしょう。教会生活で豊かな賜物を受けることは、日常生活や社会生活においても、その人でなければできないような働きをなしていくことにつながっていくのです。
 このように考えていきますと、カリスマという言葉のルーツが教会における聖霊の賜物にあるということもうなずけるのではないでしょうか。本当のカリスマというのは、ただ単に人を引き付けたり従わせたりするような不思議な力ということではありません。むしろ、人目を引かなくても、その人でなければできないような働きを安定して担っていくことだと思います。教会生活を通して賜物を受け、その賜物を日常生活や社会生活にも生かしていけるように祈りたいと思います。 (2017年7月2日の説教より)