あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 (一コリント1:5)
「言葉」や「知識」においてコリント教会が豊かにされていたとは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。同じ第一の手紙の12章4-11節を読んでみますと、コリント教会に与えられた聖霊の賜物には言葉に関するものが多いということが分かります。もちろん、病のいやしや奇跡を行う賜物も挙げられていますが、そこで挙げられている9種類の賜物のうち、実に6つが言葉に関するものです。すなわち、コリント教会は様々な仕方で言葉を語ることが得意な教会であったということです。教会にはいろいろな教会があります。黙って神様を信じて、静かにお祈りをし、黙々と奉仕するような教会もありますが、コリント教会はそのような教会ではありませんでした。コリント教会は証しし、祈り、議論する活発な教会でありました。一言で言えば、にぎやかな教会であったと言ってもよいでしょう。そして、そのような特徴に伴う様々な問題点が教会の中にあったのですが、それにもかかわらず、パウロはまずコリント教会の信徒たちが言葉や知識において豊かにされていることを「感謝しています」(4節)とはっきり記しています。これはもちろん皮肉ではありませんし、信徒たちの気を引くための社交辞令でもないでしょう。パウロはコリント教会の言葉や知識の豊かさが、他方では様々な問題をも引き起こしていることを十分承知した上で、それでもその言葉や知識が「キリストに結ばれ」て与えられたことをきちんと認めて、まず神に感謝をしているのです。
これはクリスチャンが互いにに関わるときの大切な姿勢を教えています。コリント教会の言葉や知識の豊かさは、長所であると同時に短所でもありました。しかし、パウロはまずそれを神の賜物として認めて評価します。相手の賜物を認めるところから関わりを始めるのです。相手の欠けを指摘してアドバイスをするのはその後です。私たちは往々にして相手の賜物を認めることなく、欠点を指摘して忠告するようなことをしていないでしょうか。相手の賜物を認めるところから関わりを始めるのがクリスチャン本来の姿勢です。 (6月25日の説教より)