聖書の言葉 テサロニケの信徒への手紙二3:1-2
主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。 (二テサロニケ3:1-2)
主の言葉が速やかに宣べ伝えられるように
パウロがテサロニケの信徒への手紙を書いたのは、第二回伝道旅行の途中、アカイア州のコリントであったと推察されます。第一の手紙はパウロのコリント伝道の比較的早い時期に、第二の手紙は比較的後期に記されたのでありましょう。パウロはコリントにおいて最初アキラとプリスキラの夫妻と寝食を共にしてテント作りの仕事をしながら伝道をしました。しかし、シラスとテモテがマケドニア州からやって来ますと、仕事を辞めて伝道に専念します。マケドニア州の諸教会からの献金によって生活が支えられたからでしょう。
そのころのパウロの伝道の様子は使徒言行録18章5-8節に次のように記されています。「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。」ここには迫害の中で苦闘しながら大胆に福音を宣べ伝えていく使徒パウロの姿が生き生きと描かれています。特に、ユダヤ教の会堂で迫害されて伝道ができなくなると、なんとその会堂の隣の家で伝道を始め、会堂の責任者である会堂長のクリスポをキリスト教の信仰に導くというめざましい働きをするのであります。
そして、このようなめざましい働きの背後には、パウロ自身の絶えざる祈りとともに、本日の箇所で要請されているようなテサロニケ教会の熱心な祈りがあったに違いありません。本日の箇所でパウロはテサロニケの信徒たちに「主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」(1節)祈ってくださいと要請しています。「あなたがたのところ」とは言うまでもなくテサロニケのことです。テサロニケでは、厳しい迫害があったにもかかわらず速やかに伝道が前進しました(一テサロニケ1:5-7参照)。コリントでも厳しい迫害を経験していたパウロは、テサロニケで受けた神の助けを思い起こしながら、テサロニケの信徒たちに祈りの支援を要請しているのでありましょう。
道に外れた悪人どもから逃れられるように
2節には「また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです」という祈りの要請の言葉が記されています。これは意外な言葉だという印象をもたれるかもしれません。「道に外れた悪人ども」という言い方はかなり強く響く言葉ですし、「すべての人に、信仰があるわけではない」という断定も相当に重い言葉です。ギリシア語の原典を読みますと、「道に外れた悪人ども」にはアトポスとポネーロスという二つの言葉が用いられており、私たちが読んでおります新共同訳聖書は、前のアトポスという言葉を「道に外れた」と訳して道徳的に悪いという意味に取り、後のポネーロスを「悪人」と訳しています。私たちは、すべての人にキリストの福音を宣べ伝えねばならないと考えていますし、誰でもキリストの福音を信じるならば救われるということを信じています。そこで、私たちの周囲の人々みんなが福音を信じてくれればよいと願うわけです。そのような思いでこの箇所を読むと、「道に外れた悪人ども」がいることが前提となっており、「すべての人に、信仰があるわけではない」と言われているので、意外に思ってがっかりするかもしれません。
しかし、パウロは福音を宣べ伝える場合の厳しい現実をしっかりと見すえて、それを受け止め、厳しい現実の中で神の助けを受けて伝道していこうとしているのです。パウロはコリントでユダヤ人たちから迫害を受けました。使徒言行録18章12節以下を読むと、パウロに反対するユダヤ人たちは、パウロをアカイア州の地方総督ガリオンのところに引き立てて行って訴えていることがわかります。テサロニケにおいても、クリスチャンたちはユダヤ人たちに迫害されて市の当局者に訴えられていました(使徒17:1-9参照)。ですから、パウロの置かれていた状況をテサロニケ教会の信徒たちはよく理解できたことでしょう。福音を聞いてもすべての人が信じるわけではないし、「道に外れた悪人ども」は信じるどころかむしろ福音を証しする人を攻撃してくるというのが現実です。そのことを知っていたテサロニケ教会の信徒たちは、パウロやその同労者のために熱心に祈ったに違いありません。
なぜ祈りが必要なのか
本日の箇所には、具体的な事柄について祈りの支援を求めるパウロの言葉が記されていました。最後に疑問が一つ残るとすれば、祈りの支援というのはなぜ必要なのか、とりわけ具体的なことについて祈って支えるということがなぜ必要なのか、という問題です。
本日の箇所のすぐ後の3節には「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」という主に対する確かな信頼を示す言葉が記されています。合理的に考えるならば、もしパウロ自身が神様の守りを確信していたのならば、どうしてテサロニケの信徒たちにこれこれこういうことを祈ってくださいと言って、祈りの支援を求める必要があったのだろうか、という疑問がわいてきます。このことをもう少し広げて考えますと、そもそも神様がすべてをご存知で何でもできる方であるならば、どうして私たちが自分の願いを神様の前に申し述べて祈る必要があるのか、神様は全知全能だから人間が祈る必要はないのではないか、という問題にもなります。
これは祈りの本質に関わる問題です。結論を申しますと、祈るということは私たち人間の信仰の成長のために与えられている恵みの手段なのだということです。つまり、神様によくお願いしておかないと神様が配慮してくださらないから祈るのではなくて、祈ることによって神様との絆がますます強くされるからこそ私たちは祈るのです。宗教改革者のカルヴァンは祈りの目的についていくつかのことを記していますが、その中でも特に興味深い点があります。その一つは、私たちが祈るのは神様の「恵みを受け入れる備えをするため」であるということです。つまり、私たちは心が鈍いために神様から恵みを受けても、それが恵みであると気づかないで過ごしがちなのです。しかし、もし私たちが具体的に神様に何かを願い、現実にその願いがかなえられたならば、喜びと感謝をもって「ああ、これは神様の恵みだ」と言ってその出来事を受け止めるでしょう。そして、ますます熱心に神様を信じることができるようになるでしょう。祈りをすることによって、神様の恵みを、恵みとして受け入れる心の備えができるのです。
もう一つのことは、神様の摂理が「われわれのたましいに確証されるため」であるということです。私たちは、神様がこの世界で起こるすべての出来事を制御し治めておられるということを理論的には信じていても、個々の一つ一つの出来事が神様の計画と意思に従って起こるということを心から信じるのは難しいのです。しかし、もし私たちが苦難に際して神様の導きを求め、現実に道が開かれて助けられたならば、私たちは神様が実際に一つ一つの出来事を制御しておられ、しかもそれらすべてが私たちの救いのために益となるということを確信できるようになります。なんとなく現実を見ているだけではわからない神様の意思が、救いを求めることによって次第に見えてくるようになります。そして、神様はほんとうに信頼できる方で、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということ」(ローマ8:28)を心から信じるようになるでしょう。実に、祈りは私たちの信仰が成長するために神様から与えられた恵みの手段なのであります。 (2017年4月30日の説教より)