説教「救いの初穂」
テサロニケの信徒への手紙二2:13-14

 神から選ばれたもの
 本日の聖書の箇所の13節において、パウロは「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません」と述べて、神に対する感謝を表しています。そして、その感謝の理由が「なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」と述べられています。神様が救われるべき者を選んでくださったという考え方は、旧新約聖書全体を通して見られるものです(一ペトロ2:9参照)。テサロニケの信徒への手紙一1章4節にも「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」とありました。ですから、テサロニケの信徒たちが救われるべき者として選ばれているという考え方自体は、聖書において特に珍しいものではありません。むしろ、私たちの注意を引くのは「救われるべき者の初穂として」という中の「初穂」という言葉です。

 この箇所について解説するときには、聖書を研究していく上での難しい問題が伴っているということを最初に申し上げねばなりません。それな、ギリシア語原典の本文を確定する上で、この箇所に書かれている言葉が聖書の写本によって違っているということなのです。新約聖書は手で書き写して作られた写本によって伝えられました。そして、写本によってさまざまな細かな言葉の違いがあります。本日の箇所の12節について申しますと、ヴァティカン写本と呼ばれる写本においてはアパルケーンという言葉が書かれていて、これは私たちが今用いております新共同訳聖書のように「初穂」と訳すことができます。ところが、シナイ写本と呼ばれる写本などにおいては、アパルケースという言葉が書かれていて、これは前に用いていた口語訳聖書のように「初めから」と訳すことができるのです。すなわち、口語訳聖書で13節後半を読みますと「それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし」となっています。すなわち、口語訳聖書では「初穂」という印象的な言葉はなくなり、その代わりに「初めから」という言葉が入っているのです。この問題にはこれ以上深入りしないようにしますが、現代の英語訳聖書の代表的なものの一つであるニュー・リバイズド・スタンダード・ヴァージョン(NRSV)が、「フロム・ザ・ビギニング」(初めから)と訳していたリバイズド・スタンダード・ヴァージョン(RSV)を改めて「アズ・ザ・ファースト・フルーツ」(初の実りとして)と訳していることにも鑑みて、私たちも新共同訳聖書のように「初穂として」という読み方を採用したいと思います。

 神に献げられる実り
 「初穂」という言葉は、英語の聖書では「ファースト・フルーツ」(NRSV)となっておりますように、元来必ずしも穀物に限られたものではありません。旧約聖書の申命記26章では、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が約束の地に入って住むことができるようになったならば、「あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ」(申命26:2)、主に献げなさいということが教えられています。ですから、「初物」という言葉には、単に最初に取れたものというだけではなく、神様に献げられるために取り分けられた良いものという意味が込められているのです。この「初物」は旧約聖書のヘブライ語でレーシート、そのギリシア語訳でアパルケーと言い、本日の箇所で「初穂」と訳されている言葉と同じです。ですから、本日の箇所の「初穂」もそのような「神様に献げられるために取り分けられた良いもの」という含みを持っているのであります。
 パウロはその地方で最初にクリスチャンになった人を「初穂」と呼ぶことがありました(ローマ16:5、一コリント16:15)。ところが、パウロがマケドニア州で最初に伝道したのはテサロニケではなくフィリピでありましたから、その地方で最初にクリスチャンになった人を「初穂」と呼ぶならば、フィリピの信徒たちこそがマケドニア州の「初穂」であるということになります。ですから、ここではパウロは「初穂」という言葉をもう少し広い意味で使っているのではないかと考えられます。テサロニケの信徒への手紙の全体的な主題は、第一と第二の手紙の両方を通して、終わりの日に備える信仰です。ですから、「初穂」という言葉も、終わりの日に神様に献げられる実りという意味で記されているのでしょう(黙示14:4参照)。そうすると、ここには、クリスチャンが終わりの日に神様に献げられる実りとして、全人類の中から選ばれて取り分けられた良いものであるという考え方がある、と言えるでしょう。

 聖霊の働きの実り
 クリスチャンを全人類の中から選んで取り分けるのは、神様御自身のわざです。パウロは13節の中ほどで「あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって」という説明の言葉を入れています。また、14節では「神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです」と記して、神の招きは福音の宣教を通してなされるということを想い起こさせています。ここには、宣べ伝える者が聖霊の力に満たされてキリストの福音を語るときに、聞いた者の心にも聖霊が働いてキリストの福音の真理を信じるようになるという、福音宣教の基本的なあり方が示されています。福音を語らせるのも、福音を信じさせるのも、神の聖霊の働きなのです。パウロのテサロニケ伝道は聖霊の働きによってなされました(一テサロニケ1:5-6参照)。福音宣教は聖霊の働きによってなされ、信仰や喜びも聖霊によって起こされるのです。そして、語らせ信じさせる聖霊の働きによって、クリスチャンは終わりの日に向けて聖なる者とされていくのです。パウロは、ローマの信徒への手紙8章23節ではクリスチャンのことを「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」と呼んでいますから、聖霊の働きが私たちの中でよき実を結んで、神様に献げられる「初穂」となると言ってもよいでありましょう。

 本日は「初穂」という言葉を中心として、聖書のさまざまな箇所を引きつつお話をいたしました。複雑で難しいと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、結論は単純です。すなわち、私たちは神様に献げられた「初穂」ですから「初穂」にふさわしく歩みましょう、ということです。もし私たちが聖霊の働きによる「初穂」であるとすれば、私たちは自分をどのように保てばよろしいのでしょうか。「初穂」を腐らせたり駄目にしてしまったりしてよろしいでしょうか。そうではないでしょう。終わりの日まで神様に喜ばれる献げものとしてよい状態に保っておく必要があります。もちろん、私たちが自分の力でよい状態に保っておくということではありません。神様はありのままの私たちを受け入れてくださっているのですから、いつも自分を神様に献げてゆだねていくならば、神様が聖霊の働きによって私たちを「初穂」としてよい状態に保ち、さらによい「初穂」となるように成熟させてくださるのです。世界が神様の畑であるとすれば、クリスチャンは神様に喜ばれる初穂です。私たちクリスチャンの実は、苦難の中で結実して成熟し、世の終わりの収穫の日に朽ちることのない栄光の実と鳴って神様に献げられるのです。神様に献げられる「初穂」にふさわしく今の時を歩んでまいりたいと思います。      (2017年4月9日の説教より)