聖書のことば テサロニケの信徒への手紙二2:13-14
なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。 (一テサロニケ2:13)
「初穂」という言葉は、英語の聖書では“first fruits”(NRSV)となっておりますように、元来必ずしも穀物に限られたものではありません。旧約聖書の申命記26章では、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が約束の地に入って住むことができるようになったならば、「あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ」(申命26:2)、主に献げなさいということが教えられています。ですから、「初物」という言葉には、単に最初に取れたものというだけではなく、神様に献げられるために取り分けられた良いものという意味が込められているのです。この「初物」は旧約聖書のヘブライ語でレーシート、そのギリシア語訳でアパルケーと言い、本日の箇所で「初穂」と訳されている言葉と同じです。ですから、本日の箇所の「初穂」もそのような「神様に献げられるために取り分けられた良いもの」という含みを持っているのであります。
パウロはその地方で最初にクリスチャンになった人を「初穂」と呼ぶことがありました(ローマ16:5、一コリント16:15)。ところが、パウロがマケドニア州で最初に伝道したのはテサロニケではなくフィリピでありましたから、その地方で最初にクリスチャンになった人を「初穂」と呼ぶならば、フィリピの信徒たちこそがマケドニア州の「初穂」であるということになります。ですから、ここではパウロは「初穂」という言葉をもう少し広い意味で使っているのではないかと考えられます。テサロニケの信徒への手紙の全体的な主題は、第一と第二の手紙の両方を通して、終わりの日に備える信仰です。ですから、「初穂」という言葉も、終わりの日に神様に献げられる実りという意味で記されているのでしょう(黙示14:4参照)。そうすると、ここには、クリスチャンが終わりの日に神様に献げられる実りとして、全人類の中から選ばれて取り分けられた良いものであるという考え方がある、と言えるでしょう。 (4月2日の説教より)