聖書のことば テサロニケの信徒への手紙二2:9-12

不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。(二テサロニケ2:9-10)

 「自分たちの救いとなる真理」とは、言うまでもなくキリストの真理です。イエス・キリストを信じる者が罪赦されて永遠の命を受けるという真理であります。ヨハネによる福音書3章20節には「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」という主の御言葉が記されています。世の光であるイエス・キリストに魂を照らされて自分の罪を明らかにされ、キリストが私たちのために十字架上で死んで復活されたことを信じる人は、罪赦されて永遠の命を受け、救われるのです。ところが、世の光であるキリストに魂を照らされることを拒む人もいます。キリストに魂を照らされるならば自分の罪を明らかにされるので、闇の中にいて罪が明らかにされない方を好むからです。このように、人間が救われるか、それとも裁かれるかという重大なことは、真理であり光であるキリストをどのように受け止めるのか、キリストを愛するか、拒否するか、キリストの方に向かうのか、背を向けるのか、という目に見えない深いところで決まるのです。

 これはとても不思議なことであります。ある人はキリストの十字架を愛し、ある人はキリストの十字架を拒否します。一体どうしてそのような違いが生ずるのでしょうか。そこまで考えると、私たちは一切を神様にゆだねる他はないと言わざるをえません。この問題について宗教改革者のカルヴァンは古代の教父アウグスティヌスの言葉を引用して、「それは深淵である。十字架の深淵である。わたしは感嘆して叫ぶことはできる。けれども、議論によって証明することはできない」と記しました。どうして真理を愛する人とそうでない人がいるのか、それを私たちが説明することはできません。その理由はただ神様だけがご存じなのです。  (3月19日の説教より)