聖書 テサロニケの信徒への手紙二1:8-10

かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。(二テサロニケ1:10)

 パウロは直前の9節で不信仰者が「永遠の破滅という刑罰を受ける」と記していますので、10節では信仰者が「永遠の生命という祝福を受ける」と言われることが予想されます。しかし、パウロはそのようには記さず、むしろ「主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられる」と記します。これはとても興味深いことです。永遠の生命を受ける信徒たちではなく、信徒たちによって永遠にほめたたえられるイエス・キリストの方に焦点が合わされているからです。

 おそらくパウロは、迫害者たちは永遠の刑罰を受けるがわたしたち信徒は永遠の生命を受けると書くことによって、テサロニケの信徒たちが傲慢な自己義認の思いに陥ることを恐れたのではないでしょうか。迫害を受けている少数者もまた、苦しみを受けている自分たちこそ救われるのだと考え、あたかも自分の苦しみによって救いを勝ち取り得るかのような傲慢な思いを抱く危険があります。信仰者は救いを受ける場合にも、神をあがめること、キリストをあがめることを中心に考えなければなりません。すなわち、私が救いを受けるということが最終目標ではなく、私の救いを通して神があがめられることこそ最終目標なのです。

 ウェストミンスター信仰告白も、神が最後の審判の日を定められたのは「選びの民の永遠の救いによって、みずからの憐れみの栄光を表し、また邪悪で不従順な遺棄の民の裁きによって、自らの義の栄光を表すためである」(33章2)と述べています。神の栄光が表され神の栄光がたたえられることこそ、最後の審判の最終目的なのです。ですから、パウロはあえて10節で、最後の審判のときに「わたしたちは永遠の命を受けるのです」とは記さないで、「主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです」と記したのでしょう。このような書き方から、パウロは自己中心的な選民意識ではなく、あくまで神様の栄光がたたえられるようにという神中心の信仰を持っていたことが分かります。(2月12日の説教より)