聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5:19-22
“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。 (一テサロニケ5:19-20)
新約聖書の時代の教会の礼拝がどのような仕方でなされていたか、というのは大変興味深いことです。もちろん、この時代には未だ新約聖書はありませんでしたし、現代のような讃美歌集や整った礼拝式もありませんでした。コリントの信徒への手紙の中には、以下のように当時の礼拝の様子をよく伝えている箇所があります。「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集ったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」(一コリント14:26-31)
これを読むと、当時は今日の教会よりもずっと自由な仕方で礼拝がなされていたということが分かります。今日の教会の説教にあたるものが「預言」ですが、それはその都度その都度、神から受けた啓示を語るというものでした。この「預言」が求道者を悔い改めに導き、初代教会の伝道の力となっていたことは疑いの余地はありません(一コリント14:24-25)。ただし、現代の説教が聖書の「みことば」に基づいているのに比べると、初代教会の「預言」は直接的な神からの啓示によっていました。このような直接的な神からの啓示によって神の意思を知ったのは、旧約聖書の預言者の時代や新約聖書の使徒たちの時代に限られており、今日では神の霊感によって書かれた聖書の「みことば」を通して神の意思を知るのであります。その点が違っていることは十分留意しておかねばなりませんが、初代教会においては聖霊による「預言」の働きによって伝道が進み、教会が形成されていったというのは重要なことです。 (1月1日の説教より)