聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。 (一テサロニケ5:16-18)
日本基督教会の指導者であった植村正久牧師は、「祈祷の三時期」と題して、次のような興味深い文章を遺しています。
「我らの祈祷は三つの時期に分かれる様だ。第一は、事あるに臨み、所謂苦しい時の神頼みと一般、何かの都合に刺戟せられて祈祷をする。即ち臨時の祈りとでも名づく可きであらう。第二は祈祷が習慣になつて、定時のものとなるのである。第三は無論祈祷を定時にする習慣を養つて居るのみならず、其の精神が祈祷的で、霊魂を挙げて何時も祈り腰になつて居る。絶えず祈るとあるが、即ち此所だろう。縦し口に出さずとも、表面に意識せずとも水の引くきに流るる様に、草木の日に向かって伸びる様に、霊魂が自ら神の方に帰依し、其の傾きが何となく之に向かつて居る様になりたいものである。」(『植村正久と其の時代』第四巻701頁。旧字を新字に変更)
植村正久が言う三時期とは、第一に、祈りが身についていない時期、第二に、毎日決まった時間に祈るというように形の上で身につく時期、第三に、毎日決まった時間に祈るというように形の上で身についているだけでなく、何をしているときも祈りの心構えになっている時期の三つであります。本日の箇所でパウロは「絶えず祈りなさい」と勧めていますが、これは植村正久によれば、第三の時期のあり方だと言うことができます。そして、とても興味深いのは、植村正久が用いている「祈り腰」という言葉です。腰は体を支える大切な部分で、人間の姿勢を決めるものです。「けんか腰」「逃げ腰」「及び腰」「粘り腰」など、腰という言葉を用いて人間としての姿勢が表されます。ですから、「祈り腰」というのは、祈りが人間の基本的な姿勢になっているということです。常に神の御心を尋ね、神に自分の思いを打ち明け、神の答えを待ち望みつつ生きる姿勢がしっかりと身についているということです。このような姿勢が身についているならば、人生のどのような嵐に出会ったとしても、それを受け止めて生きていくことができるでありましょう。
(12月11日の説教より)