あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。 (一テサロニケ5:12-13)
ここでは、教会の指導者の働きが三つの言葉で言い表されています。第一に、「労苦する」です。これは、コピアオーというギリシア語の動詞で、肉体的な労苦と精神的な労苦の両方を指す言葉です。パウロは町から町へと旅をして福音を宣べ伝え、いたるところで迫害を受け、しばしば命の危険にさらされました。テサロニケ教会の指導者たちは、パウロほど旅をして危険を冒すことはなかったでしょう。しかし、テサロニケ教会は、ユダヤ人からの激しい迫害にさらされ、また、皇帝に対する反逆の疑いをかけられ、市の当局者によって監視されていました。そのような状況の中で、教会の指導者たちがいかに労苦を負ったかということは、想像に難くありません。
第二に、「導く」ということです。これはプロイステーミというギリシア語の動詞です。この言葉には、「指導する」と「配慮する」という二つの意味があり、指導者たちは、この両方を行っている人々だと考えられます。教会の指導者は、ただ自分の権威を主張して信徒たちに命令を下しているだけではつとまりません。天におられるキリストの権威によって強く命じることも必要でありますが、同時に十字架についてくださったキリストのへりくだりに倣って、低い気持ちで信徒たちの魂のために配慮することも必要なのです。
第三に、「戒める」ということです。これはヌーセテオーというギリシア語の動詞で、正しくない行いを止めさせ、避けさせるために忠告するという意味です。教会の指導者は、必要なときには信徒に対してあえて耳の痛いことも言わねばなりません。とくに信徒が罪を犯している場合には、その人に悔い改めを勧告して、罪の道から正しい道へと立ち帰るように努めねばなりません。これは、真実の愛がなければなしえないことでしょう。パウロはこのような重大なつとめを担っている指導者たちを「愛をもって心から尊敬しなさい」と命じています。 (12月4日の説教より)