神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。
(一テサロニケ5:9)

 「救いにあずからせるように定められた」は、ギリシア語原典をより逐語的に訳しますと、「救いを得ることへと定められた」となります。単に「救いへと定められた」ではなく、「救いを得ることへと定められた」となっている点に注意したいと思います。神様が私たち一人一人を選んでおられるということは、単に運命として救いが定められていて、選ばれた人は機械的に天国に行けるというようなものではないのです。

 「日本キリスト教会信仰の告白」におきましても、「おほよそ神の選びを受け、この救ひの御業を信ずる者は、キリストに在りて義と認められ、功なくして罪の赦しを得、神の子とせらる」と告白されております。神の選びを受けた人には、キリストの救いの御業を信ずるという主体的な信仰が起こり、その信仰によってキリストの救いを受け取り、義とされるのであります。そして、義とされることは聖とされることと不可分でありますから、神の選びを受けていることこそが、クリスチャンとして聖なる行いをすることのできる根拠なのです。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(一テサロニケ4:3)とありますように、クリスチャンが聖なる者とされるのは、ただ恵み深い神の意思によるのです。


 ですから、終わりの日の最後の審判に備えて、敬虔で慎み深い生活をすることができるとすれば、それは神様に選ばれて、救いを得ることへと定められているからに他なりません。そのように選んでくださった神様の恵み深い意思以外に、私たちの救いの根拠はないのです。神様に選ばれたからこそ、信仰を与えられ、義とされ、日々聖化されて、終わりの日に向かって備えることができるのです。ですから、私たちは終わりの日に向かって備えをしていかねばなりませんが、そのことによって人間の側の行いを強調する律法主義に陥ることのないように、十分注意したいものであります。パウロのように、私たちを選んでくださった恵み深い神の意思を強調するようにしたいと思います。    (11月27日の説教より)