それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。       (一テサロニケ4:17)

 「空中で主と出会う」とか、「雲に包まれて引き上げられます」という表現には、どのような意味があるのでしょうか。これらは文字通りの意味というよりは、むしろ象徴的に解釈すべきでしょう。「空中」は天と地の間を意味しております。天はこの世を超えた神のおられる場所であり、地は私たちが住んでいるこの世界です。終わりの日に、キリストは最後の審判をするために、天から再びこの世に来られます。そして、そのとき、キリストを信じる者は、この世から天の方へと引き上げられます。すなわち、この世の目に見える朽ちて行く世界から、永遠の朽ちることのない世界へと引き上げられ、自らも朽ちない存在に変えられるのであります。その変化の仕方について、パウロは「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(一コリント15:53)と記しています。これは、私たちの朽ちるべき体が、キリストの朽ちることのない生命の力に包まれて、一瞬にして朽ちないものへと変化するということでしょう。

 「雲に包まれて引き上げられます」の「雲」というのは、キリストが「大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来る」(マタイ24:30)という場合と同じように、力と栄光を表す象徴的表現であります。すなわち、信仰者がキリストの力と栄光にあずかって、キリストと同じような者とされて天に引き上げられるというのであります。そもそも、「雲」は旧約聖書において神の臨在の栄光を示すものでした。モーセがシナイ山で神の啓示を受けたときや(出エジプト24:15-18)、ソロモンがエルサレムで神殿を献げたときにも(列王上8:10-11)、神の臨在の栄光のしるしとして、そこに雲がありました。

 このように考えて見ますと、「空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」というのは、終わりの日にこの世に生きている信仰者が、神の栄光に包まれて超越的な世界へと移されるという意味だということが分かります。    (11月6日の説教より)