2016年11月6日の説教内容をより詳しく記します。

説教「主と共にいる幸い」
テサロニケの信徒への手紙一4:15-18

 終わりの日についての疑問
 本日の箇所の17節には「それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と記されています。パウロは終わりの日が差し迫っていると信じていました。そして、自分やテサロニケの信徒たちは、この地上に生き残った状態で終わりの日を迎え、再臨のキリストに出会うだろうと考えていました。それで、「わたしたち生き残っている者が」という書き方をしているのです。この箇所は、私たちにいろいろな疑問を起こさせます。第一に、パウロはこの地上に生きた状態で終わりの日を迎えると考えていたようですが、私たちも同じように考えなければならないのだろうか、という疑問です。第二に、「空中で主と出会う」とか「雲に包まれて引き上げられます」という表現をどのように理解すればよいか、という疑問です。第三に、「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」というのは、いかなる状態で共にいることになるのか、という疑問です。これらの疑問について、順に考えてみたいと思います。

 地上で終わりの日を迎えるのか
 第一に、私たちもパウロと同じように、この地上で終わりの日を迎えると考えなければならないのでしょうか。パウロは終わりの日とキリストの再臨が差し迫っていると信じていましたが、その生涯の途中からだんだんと考えが変わっていったようです。コリントの信徒への手紙二4章14節には「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」とあります。この文の中では「イエスと共にわたしたちをも復活させ」とありますように、パウロは自分を終わりの日に復活させられる死者の中に含めています。ということは、自分は終わりの日のキリストの再臨より前に死ぬと考えていたことになります。また、フィリピの信徒への手紙の中には「死ぬことは利益なのです」(1:21)とか、「この世を去って、キリストと共にいたい」(1:23)というような言葉が見られます。すなわち、フィリピの信徒への手紙を書いた時点では、パウロは自分がキリストの再臨の前に死んで、魂がキリストのもとに召される可能性があると考えていたことが分かります。終わりの日までこの地上で生き残っているという信念は、パウロの生涯の中でも変化していました。ですから、私たちも自分がこの地上に生きているうちに終わりの日が来ると信じる必要はありません。ただし、後の5章にも記されておりますように、いつ終わりの日が来てもよいように備えをしておくことは求められています。

 「空中で主と出会う」とは
 第二に、「空中で主と出会う」とか、「雲に包まれて引き上げられます」という表現には、どのような意味があるのでしょうか。これらは文字どおりの意味というよりは、むしろ象徴的に解釈すべきでしょう。「空中」は天と地の間を意味しております。天はこの世を超えた神のおられる場所であり、地は私たちが住んでいるこの世界です。終わりの日に、キリストは最後の審判をするために、天から再びこの世に来られます。そして、そのとき、キリストを信じる者は、この世から天の方へと引き上げられます。すなわち、この世の目に見える朽ちて行く世界から、永遠の朽ちることのない世界へと引き上げられ、自らも朽ちない存在に変えられるのであります。その変化の仕方について、パウロは「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(一コリント15:53)と記しています。これは、私たちの朽ちるべき体が、キリストの朽ちることのない生命の力に包まれて、一瞬にして朽ちないものへと変化するということでしょう。

「雲に包まれて引き上げられます」の「雲」というのは、キリストが「大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来る」(マタイ24:30)という場合と同じように、力と栄光を表す象徴的表現であります。すなわち、信仰者がキリストの力と栄光にあずかって、キリストと同じような者とされて天に引き上げられるというのであります。そもそも、「雲」は旧約聖書において神の臨在の栄光を示すものでした。モーセがシナイ山で神の啓示を受けたときや(出エジプト24:15-18)、ソロモンがエルサレムで神殿を献げたときにも(列王上8:10-11)、神の臨在の栄光のしるしとして、そこに雲がありました。このように考えて見ますと、「空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」というのは、終わりの日にこの世に生きているクリスチャンが、神の栄光に包まれて超越的な世界へと移されるという意味だということが分かります。文字どおり空中に上昇するとか雲に乗るという意味に理解する必要はないのであります。

 いかなる状態で主と共にいるのか
 第三に、いかなる状態で私たちは主と共にいることになるのでしょうか。これについては、二つの考え方があります。一つは、天の方に引き上げられるのですから、天において、つまり超越的な世界において、主イエス・キリストと共に永遠に生きるという考え方です。これは伝統的な分かりやすい考え方です。もう一つは、一度天の方に引き上げられてそこで朽ちない者とされ、再びキリストと共にこの世に降って来てキリストと共に永遠に生きるという考え方です。この考え方は少し奇妙に聞こえるかもしれません。しかし、ヨハネによる黙示録21章には、新しいエルサレムすなわち天の都がこの世に降って来て万物が新しくされると教えられています(黙示録21:1-5)。そうすると、終わりの日にはこの世自体が全く新しくされ天国に等しくなる、とも言うことができるでしょう。したがって、全く新しくされた世界でクリスチャンは永遠にキリストと共に生きると解釈することもできるのです。

 マタイによる福音書25章には、キリストの再臨を待つクリスチャンが、花婿の到着を待つ花嫁の付き人たちにたとえられています。花婿は夜になっても到着しません。愚かな付き人のおとめたちは、花婿を迎えに出るためのともし火の油を用意していませんでした。賢い付き人のおとめたちは、花婿を迎えに出るためのともし火の油を用意して待っていました。花婿の到着が遅れたために、付き人のおとめたちはみな眠ってしまいました。そして、真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」という声がしたときに、ともし火の油を用意していた賢いおとめたちは花婿を迎えに出ることができました。ところが、ともし火の油を用意していなかった愚かなおとめたちは、花婿を迎えに出ることができず、あわてて油を買いに行きました。花婿を迎えに行った賢いおとめたちは、花婿や花嫁と共に婚礼の祝宴に参加することができました。ところが、あわてて油を買いに行った愚かなおとめたちは、婚礼の祝宴に参加することができませんでした。このたとえ話で、ともし火の油を用意しているおとめたちが花婿を迎えに行くということと、本日の箇所で朽ちない存在に変えられたクリスチャンが「空中で主と出会う」ということは、同じことを言っているのかもしれません。そのようなことも考えますと、終わりの日にはキリストが最後の審判をするために天から降って来られ、そのときに死者は復活し、生き残っているクリスチャンは栄光の体に変えられて再臨のキリストを迎えに出て、天国と一つになった新しい世界で永遠にキリストと共に生きることになる、と言うこともできるでしょう。

 終わりの日の究極の出来事がどのようなものなのかということを、人間の言葉で正確に表現するのは非常に難しいことです。ですから、完全にわからなくてもよいと思うのです。ただし、確かなことが一つあります。それは、終わりの日にクリスチャンは、この地上に生きていても、死んでこの地上にいなくても、キリストと同じような栄光の体を与えられるということです。そして、平安のうちに永遠にキリストと共にいることができるようになるということです。すなわち、使徒信条で告白されている「体の復活、永遠の生命」を与えられるということです。パウロが「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(二コリント4:17)と約束していることが実現するのであります。 (2016年11月6日の説教より)