2016年10月9日の説教の内容を、より詳しく記します。
説教「愛と品位を保つ」
テサロニケの信徒への手紙一4:9-12
互いに愛し合うように
本日の箇所の9節では、信徒同士、クリスチャン同士の関係が教えられています。「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。」新約聖書においては、すべての隣人を愛するようにと教えられていますが、特に信徒同士が互いに愛し合うようにということが命じられています。すなわち、ローマの信徒への手紙においては「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:9-10)と教えられています。また、ペトロの手紙一においては「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(一ペトロ1:22)と勧められています。
このように、まず信仰による兄弟姉妹たちを愛するようにということが教えられています。なぜそうなのかということは、少し考えてみるればわかることでありましょう。同じようにキリストを信じる信仰をもっている兄弟姉妹を愛することができない人が、異なる信仰をもつ人々を愛することができるでしょうか。あるいは、キリスト教を理解せずクリスチャンを迫害するような人々を愛することができるでしょうか。できないでしょう。クリスチャンはキリストの恵みの中に招き入れられた者ですから、まずお互いに赦し合い愛し合うことが求められているのです(コロサイ3:13-15)。信徒同士が互いに争い合っているようでは、クリスチャンとしての基本が身についていないと言われても仕方がありません。新約聖書の教会でもコリントの教会にはそのような傾向がありました。そこで、パウロはコリント教会の信徒たちに対しては「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(一コリント3:3)という厳しい警告を発しています。
ところが、テサロニケの信徒たちはお互いに愛し合うことについては、よい歩みをしていました。そこで、パウロは「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません」と記しました。そして、その理由を「あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです」と説明しています。「神から教えられている」というのは、聖霊の働きによって互いに愛し合うようにとの促しを受けているということなのでしょう。すぐ前の8節には「御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神」という言葉があるからです。また、3章12節には「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」という祈りがあります。ですから、互いに愛し合うように内面的な促しを与え、それを実行させるのも聖霊の働きであり、テサロニケの信徒たちはそのような聖霊の働きによって兄弟愛を身につけている、とパウロは考えていたのでありましょう。
10節には「現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます」という勧告の言葉があります。この言葉からテサロニケ教会の信徒たちは、自分たちの教会の中だけでなく、マケドニア州にある他の教会の信徒たちに対しても兄弟愛を実践していたことがわかります。使徒言行録によれば、マケドニア州にはフィリピやベレアにも信徒たちの群れがありました。また、他の町々にも使徒言行録に記されていない信徒たちの群れがあったかもしれません。テサロニケ教会の信徒たちは、そのような他の教会の信徒たちに対して、兄弟愛に基づいた祈りや献げものや交わりによって仕えていたのでありましょう。
自分の手で働くように
兄弟愛が強調されるところでは、兄弟からの愛に依存して生きていく人々ができてしまう恐れがあります。互いに愛し合いなさいという教えに従って、貧しい人や困窮している人を助けるのはよいことです。しかし、それが当然のことのようになって、自分の手で働こうとしない人々ができてしまうことは問題です。おそらく、テサロニケ教会にはそのような問題が生じ始めていたのでありましょう。その背景には、テサロニケ教会はキリストの再臨と終わりの日の救いを待ち望む終末論的な信仰を強くもっていたことも関係しているようです。すなわち、終わりの日が近いということを理由にして、毎日の仕事をして生計を立てていく堅実な生活をしなくなった信徒たちがいたのではないかと推測されるのです。
そのような推測の根拠となるのは、テサロニケの信徒への手紙二の3章10-12節にある次のような言葉です。「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」この第二の手紙が記されたときには、働かない兄弟たちの問題はかなり深刻になっていたようです。それに続く箇所でパウロは「もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう」(二テサロニケ3:14)という厳しい言葉で警告を発しています。第一の手紙が記された時点では、事態はそこまで深刻ではなかったのでしょうが、すでに兄弟に依存して自分で働かない人々の問題が生じ始めていたのだろうと思われます。そこで、パウロは本日の箇所の11節で「そして、わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と勧めているのです。
この勧告はごくあたり前のことのように聞こえます。しかし、私たちは、この勧告が終わりの日の救いを待ち望む信仰に基づいてなされているということに注目したいのです。終わりの日の救いとか天国の救いを信じる人と申しますと、普通は、世捨て人のような人やこの世ではあまり働かない人の姿を連想します。しかし、パウロの信仰生活においては、終わりの日の救いを待ち望むということと、この世で堅実に働くということが両立していました。パウロはローマの信徒への手紙において「世は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」(ローマ13:12-13)と勧めています。光の武具を身に着けて品位をもって歩むということは、本日の箇所の言い方では「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働く」ということになります。
宗教改革者のカルヴァンによれば、終わりの日の救いを待ち望みつつ生きるクリスチャンは、「主によって配置された持ち場のようなもの」として、この世における一人一人の暮らしを与えられています。カルヴァンはそれを「召命」(ラテン語“vocatio”)と呼び、「どんなにいやがられる・いやしい仕事であっても(あなたがそこであなたの『召命』に従いさえすれば)神の前で輝き、最も尊いものとならぬものはない」(『キリスト教綱要』3篇10章6)と教えています。もちろん、その仕事の内容が、明らかに神の戒めに反するようなものであるならば、この言葉を当てはめることはできないでしょう。しかし、この地上にあって生計を立てるために与えられた職業が、原則としては神様から与えられた「持ち場」であり「召命」であるという考え方は、本日の聖書の箇所の考え方とよく一致するものです。すなわち、この世の仕事をして生計を立てつつ、キリストを証しする生活をして、終わりの日の救いを待ち望むような生き方が、クリスチャンのこの世での生き方として勧められているのです。英語で職業のことを“vocation”と言いますが、これは本来「召命」「天職」という意味で、先ほど申し上げたラテン語の“vocatio”(召命)、“voco”(呼ぶ、召す)という言葉に由来しています。 (2016年10月9日の説教より)