テサロニケの信徒への手紙一 4:9-12 をもとに、愛と品位を保つ生活について学びました。
そして、わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。 (一テサロニケ4:11)
終わりの日の救いとか天国の救いを信じる人と申しますと、普通は、世捨て人のような人やこの世ではあまり働かない人の姿を連想します。しかし、パウロの信仰生活においては、終わりの日の救いを待ち望むということと、この世で堅実に働くということが両立していました。パウロはローマの信徒への手紙において「世は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」(ローマ13:12-13)と勧めています。光の武具を身に着けて品位をもって歩むということは、本日の箇所の言い方では「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働く」ということになります。
宗教改革者のカルヴァンによれば、終わりの日の救いを待ち望みつつ生きるクリスチャンは、「主によって配置された持ち場のようなもの」として、この世における一人一人の暮らしを与えられています。カルヴァンはそれを「召命」(ラテン語 “vocatio” )と呼び、「どんなにいやがられる・いやしい仕事であっても(あなたがそこであなたの『召命』に従いさえすれば)神の前で輝き、最も尊いものとならぬものはない」(『キリスト教綱要』3篇10章6)と教えています。もちろん、その仕事の内容が、明らかに神の戒めに反するようなものであるならば、この言葉を当てはめることはできないでしょう。しかし、この地上にあって生計を立てるために与えられた職業が、原則としては神様から与えられた「持ち場」であり「召命」であるという考え方は、本日の聖書の箇所の考え方とよく一致するものです。すなわち、この世の仕事をして生計を立てつつ、キリストを証しする生活をして、終わりの日の救いを待ち望むような生き方が、クリスチャンのこの世での生き方として勧められているのです。英語で職業のことを“vocation”と言いますが、これは本来「召命」「天職」という意味で、先ほど申し上げたラテン語の “vocatio”(召命)、“voco”(呼ぶ、召す)という言葉に由来しています。
(10月9日の説教より)