テサロニケの信徒への手紙一 4:6-8
をもとに、聖霊による生活について学びました。
神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
(一テサロニケ4:7)
ギリシア語原典を読みますと、「汚れた生き方(をさせる)」と訳されているアカサルシアという言葉のほうには、 エピという前置詞がついており、これは確かに「〜のために」と訳すことができます。ところが、聖なる生活をさせる」と訳されているハギアスモス(聖化)という言葉の方には、エンという前置詞がついています。エンは英語のインにあたる言葉ですから、「〜のために」ではなく「〜の中に」と訳すのがより正確でしょう。
そうすると、意味はやや複雑になりますが、「汚れた生き方のためではなく、聖化の中に、神は私たちを召されたのです」ということになります。あえて「召す」という言葉を用いましたのは、この言葉(ギリシア語カレオー)が、人をクリスチャンとして召すという特別の意味をも持っているからです。また、「聖なる生活をさせるため」または「聖化のため」と訳さないで、「聖化の中に」 と訳しましたのは、先程も申し上げましたようなエンという前置詞の意味を表現しようとした結果であります。英語の聖書には、この前置詞の意味を正確に表現したものがあります。すなわち、”For God has not called us for the purpose of impurity, but in sanctification”「というのは、神は私たちを不純なことのためではなく、聖化の中に召されたからです。」(NASB)
このような細かなことを説明いたしましたのは、次のようなことをご理解いただきたいと願っているからです。すなわち、この箇所の意味は、「神様は聖なる生活をさせるために私たちをクリスチャンとして召されました。だから、あなたがたは各自がんばって聖なる生活をしなさい」というのとは少し違っているということなのです。むしろ、「神様は私たちを神様ご自身の聖化の働きという現実の中に召されました。だから、この現実を受け入れて、それに従いなさい」という意味なのです。聖化とは、 神様ご自身が働いてくださる現実であり、その中に私たちは召された、ということが大切なのです。 (10月2日の説教より)