説教「キリストの復活」

ルカによる福音書23章56節b-24章12節

 理解できないという反応
 本日の聖書の箇所は、キリストが復活なさった日の朝、最初にキリストの墓を訪ねた婦人たちについて記された箇所であります。この箇所で大切なのは、ガリラヤからキリストに従って来たマグダラのマリアなどの婦人たちが空になった墓を見て、また「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(6節)という知らせを聞いて、キリストの復活の最初の証人となったという点であります。しかし、この婦人たちの証言はあまり重んじられませんでした。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(11節)とあるとおりです。ただし、ペトロは「立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」(12節)のでありました。この箇所からわかることは、キリストの復活は歴史的事実であるけれども、常識的な自然法則とか人間の経験とか因果関係の法則というものにはまったくあてはまらない事柄であるため、キリストの弟子たちさえも理解することができなかったということであります。この箇所に登場する復活の出来事に出会った人々の共通した反応は、何が起こったのか理解できないという反応でした。4節によりますと、婦人たちはキリストの遺体がないために「途方に暮れて」おりました。また、11節によりますと、婦人たちからキリストが復活したということを聞いた十一弟子などには「この話がたわ言のように思われた」のでありました。十一弟子の中で唯一事実を確認しに行ったペトロですら、キリストの遺体がなくなっているのを目撃して「この出来事に驚きながら家に帰った」(12節)のでありました。

 復活証言の多様性
 福音書の中で一番最初に記されたと考えられているマルコによる福音書によれば、復活の告知を聞かされた婦人たちは、まったくうろたえてしまってこの出来事を証言することができなかったということです。これは、婦人たちが帰って十一弟子に復活の証言をしたとするルカによる福音書の記述と矛盾しているようにも読めます。ちなみに、マタイによる福音書によれば、婦人たちは弟子たちに喜んでキリストの復活を告げようとしたとのことですし、ヨハネによる福音書によれば、マグダラのマリアが弟子たちにキリストの復活を報告したことが記されています。この問題について、イギリスの新約学研究の権威であるダラム大学のクランフィールド教授は、婦人たちが「正気を失って」「だれにも何も言わなかった」(マルコ16:8)のは一時のことで、ずっと何も言わなかったのではないと解釈しています。そうすると、マルコは、復活という超自然的な出来事に出会った婦人たちが、その出来事を受け止めきれずに正気を失ったということを強調しており、ルカは、婦人たちは混乱したのだけれども、確かに後で弟子たちに証言した、ということを強調していることになります。アバディーン大学のマーシャル教授は、ルカは墓を訪ねた婦人たちに関する独自の口頭伝承によりマルコを補足したか、または別の資料に基づいて違った書き方をしたのであろう、ということを推定しています。それぞれの福音書におけるイースターの朝の出来事の記述について一致しない部分があるのは、復活という出来事が非常に大きな衝撃を与え、その衝撃によってひととおりでないさまざまな証言が生み出されたということでありましょう。復活が歴史的事実であり、かつ人間の理性と感覚の許容量をはるかに超えるような出来事であったために、復活の証言は多様にならざるをえなかったのでありましょう。  マタイは、婦人たちが弟子たちのところに戻る途中で復活したキリストに出会ったと記しています(マタイ28:9)。また、ヨハネは、マグダラのマリアが弟子たちに報告した後に、再び墓に行ってそこで復活したキリストに出会ったことを記しています(ヨハネ20:11-18)。ルカによる福音書を読むと、キリストの墓を見に行ったのはペトロ一人のようであるかのように思われますが、ヨハネによる福音書によれば、実際にはペトロともう一人の弟子が見に行ったということであります。これらの事柄は互いに矛盾する報告としてではなく、互いに補い合う報告として読まれなければなりません。すなわち、ばらばらになった断片をつなぎ合わせて、それらの断片の元になった出来事を読み取るように務めなければならないのです。一つの福音書に書かれていないことを、他の福音書で補って理解しなければならないということです。そのように考えてみますと、キリストが復活なさった日の朝、婦人たちは、ルカによる福音書に記されているように、空になった墓を見て、天使の言葉を聞いただけでなく、実際に復活したキリストを目撃し、特にマグダラのマリアは復活したキリストと対話をしたということが、歴史的事実として考えられるのであります。

 歴史的事実である復活
 ところが、聖書を研究する学者たちが皆このように復活を歴史的事実として認めているわけではありません。ドイツのマールブルク大学にブルトマン教授という有名な新約聖書の学者がいました。ブルトマンは次のように考えました。新約聖書に記されている出来事は、古代の神話的表現によって記されているから、科学的な考え方を身につけている現代人が、それをそのまま信じることは、知性を犠牲にすることになる。したがって、新約聖書に記されている事柄は、それが私にとって何を意味しているかという基準で「非神話化」されなければならない。したがって、復活は歴史的事実ではなく、キリスとの十字架と共に宣べ伝えられる「宣教の言(ことば)」なのであり、その「言への信仰がまさしく復活祭の信仰なのである」ということになります。この考え方によると、復活とは歴史的事実ではなく、原始教会が宣べ伝えた信仰上の事実である、ということになります。しかし、キリスト教の信仰を歴史的事実から分離するということは、キリスト教を本来のものとは異質なものにしてしまうたいへん危険なことであります。  さきほど引用したアバディーン大学のマーシャル教授は、 クリスチャンは一般の歴史家には受け入れられないような超自然的な出来事を歴史的事実として記すことができること、ルカは歴史的事実として復活を記していることを論じています。福音書は「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに」(ルカ1:1-2)書かれているのであり、復活が歴史的事実であることは「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」(使徒2:32)というペトロの説教からも明かであります。使徒パウロも、コリントの信徒への手紙一15章において復活が歴史的事実であることを明言しています。確かに、キリストの復活は科学的な常識からすればありえないことです。しかし、「常識で考えればありえない」ということは、それか?「起こらなかった」ということではないのです。      

(2015年4月5日の説教より)