説教「十字架の道を歩むキリスト」
ルカによる福音書18:31-43

救いを求める叫び
本日の聖書の箇所の35-43節には、キリストと弟子たちがエルサレムの都に向かう途中で起こった、目の不自由な人のいやしの物語が記されています。キリストは十字架の贖罪という偉大な使命を果たすためにエルサレムに向かっておられたのですが、その途中で出会った救いを求める一人の人にも目を止め、心を砕かれたのでありました。 エリコの町の門の近くの道端に、座って物乞いをしている一人の目の不自由な人がおりました。マルコによる福音書10章46節によりますと、その人はバルティマイという名であったということです。この人は群衆がざわざわと通り過ぎて行く雰囲気にただならぬものを感じて「これは、いったい何事ですか」(36節)と尋ねました。すると、ある人が「ナザレのイエスのお通りだ」(37節)と答えました。この目の不自由な人は、以前から人々のうわさで、ナザレのイエスと呼ばれる方が奇跡を行う力があり、旧約聖書で預言されているメシアであるということを聞いていたのでしょう。突然に「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(38節)と叫び出しました。 この言葉には、この人の現在の状態の困難さと、「ダビデの子」であるメシアに対する熱い期待が込められています。すなわち、この人は神の民イスラエルの一員でありながら、肉体の不自由さのために神を讃美して生きるのが困難な状態にありました。罪と死の力の下でうめき苦しんでいたのでありました。しかし、この人もまたイスラエルの民の一員として、終わりの日にはメシアが来られて苦しむ民を解放してくださるということを信じていました。預言者イザヤが預言したように、「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:5-6)というような奇跡が起こることを待ち望んでいたのでした。イザヤはまた「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る」(イザヤ35:10)というように、解放された人々の喜びを預言しています。本日の箇所に出てくる目の不自由な人も、罪と死の力から解放されて、喜びをもって神を讃美する日が来ることを待ち望んでいたのでありました。 ですから、メシアと信じるナザレのイエスが自分の前を通り過ぎようとするときに、彼は黙っていることができずに叫び出したのでありました。彼の異常な叫び方に驚いた人々は、彼を叱りつけて黙らせようとしました。このような見苦しい物乞いはキリストの前に出るにふさわしくない、と思ったのでありましょう。しかし、救い主を心から待ち望んでいた、この目の不自由な人にとっては、人々がどう思うかというようなことは問題ではありませんでした。この人はひたすらにキリストに心を向けて「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(39節)と叫び続けたのでありました。

あなたの信仰があなたを救った

この叫び声がキリストの耳に届きました。キリストはエルサレムで十字架の贖罪の業を果たすという大事業を前にしておられましたが、御自身に向かって叫び続ける一人の人の魂を、ほうっておかれませんでした。それは、キリストの贖罪の業自体が、人間を罪と死の力から解放するためのものであり、キリストは罪と死に支配された人間の存在に深い同情と共感をもっておられたからであります。キリストは立ち止まって、叫び続ける人を御自身のそばに連れて来るようにとお命じになりました。そして、 近づいてきた目の不自由な物乞いに向かって「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。その人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」(41節)と答えました。この人にとって目が見えるようになることは、苦しみの中に閉じ込められた生き方から解放され、神を讃美して生きるように変えられることを意味していました。キリストは彼の深い魂の叫びを聞き取り、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(42節)とおっしゃったのであります。 キリストは、この慰めと励ましに満ちた御言葉を、これまでも何度も苦しむ人々に向かって語ってこられました。あるときは、人々から罪人として軽蔑され疎外されている売春婦に対して罪の赦しを約束なさって、「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ7:50)とおっしゃいました。また、12年間子宮からの出血に苦しみ、治療のために財産を使い果たした女性をいやされたときも、「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ8:48)とおっしゃいました。そして、エルサレムに近づいたこのとき、ひたすらに「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続ける目の不自由な物乞いに対しても、「あなたの信仰があなたを救った」と語り、新しく生きる者としてくださったのでありました。その新しい生き方とは「神をほめたたえながら、イエスに従った」(43節)という生き方でした。目が見えるようになったという奇跡は、それ自体が目的というよりも、神をほめたたえながらイエスに従う生き方への入り口として与えられたものでした。信仰は不可能を可能にしますが、この人にとって可能にされたことは、単に物理的な視力を得たということだけではなく、罪と死の束縛から解放された自由な者として、キリストに従って新しく歩み始めるということだったのです。 旧約聖書で預言されていた救い主イエス・キリストは、罪と死の力を打ち破りながら、贖罪の業を完成するためにエルサレムへと向かっておられました。一方において、その使命をお与えになった神に対して完全に服従しつつ、他方においては、罪と死の重荷に苦しむ人間に完全に連帯して、神と人を和解させる仲保者としての務めを果たされたのでありました。この世界で苦しむ人にとっての最後のよりどころは、神が私を愛していてくださるという確信です。しかし、いったい何によって苦しむ人が神の愛を確信することができるのでしょうか。もし、抽象的に神という存在を考えようとするならば、絶望に陥るしかないことでしょう。また、この世的な救いを売り物にしている宗教にすがれば、迷信に支配されてしまうことでしょう。ご自身の十字架の苦しみによって人類の罪を償い、復活して罪と死に勝利してくださったキリスト以外には、神が苦しむ私を、また苦しむ私たち人類を愛してくださるということの確証はありえないのです。神の愛を信じることができないで、罪と死の中に閉じ込められていた私たち人類に、神の愛を確信させることのできるのは、私たちに代わって十字架上で死んで復活してくださったイエス・キリスト以外にはありません。そして、神の愛を知ることなしにまことの救いはないとすれば、キリスト以外にまことの救いはないのであります。       (2014年8月10日の説教より)