説教「悪に挑戦するキリスト」
ルカによる福音書14:1-6

 安息日に病をいやすこと
本日の聖書の箇所では、キリストが安息日に水腫を患っている人をいやす奇跡を行われたことが記されておりました。水腫というのは、文字どおり水分が体の中にたまる病気です。その原因はさまざまですが、心臓病が原因となっている場合は、突然の死をもたらすこともあるということです。ただし、本日の箇所では、この水腫を患っていた人が生命の危険な状態にあったとは認められないでしょう。ユダヤ人の律法解釈によれば、生命の危険な状態であれば安息日であってもその病人にいやしの業をしてよいということになっていました。しかし、生命が危険な状態になければ、安息日にその病人をいやしてはならないということになっていました。そのことがよく表されているのが、ルカによる福音書13章14節の会堂長の言葉です。これは、キリストがユダヤ人の会堂で安息日に18年間腰が曲がったままの人をいやされたときに、会堂長が腹を立てて言った言葉です。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」これに対してキリストは次のように反論されました。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」(ルカ13:15-16)この会堂長とキリストのやりとりは本日の箇所とよく似ています。
しかし、本日の箇所では、キリストは御自身の方から律法の専門家たちやファリサイ派の人々に向かって「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と問いかけておられます。キリストの側に律法主義者に対するより挑戦的な姿勢があると言えるでしょう。また、安息日に病人をいやすことの根拠となるたとえも、本日の箇所の方がより差し迫った印象を与えます。すなわち、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)とおっしゃっています。聖書の時代、井戸がどれくらいの大きさでどれくらいの深さであったかということは、一様ではなかったようです。しかし、牛が落ちるというくらいですから、かなり口の大きな井戸を想像する必要があるでしょう。また、井戸は水を汚さないためにも普通は石でふたをすることになっていましたから、子供や牛が落ちる井戸というのは、ふたのない水の枯れた井戸ということなのでしょう。そして、安息日に家畜が井戸に落ちた場合については、律法の専門家にも二種類の見解があったそうです。すなわち、寛大な立場では、家畜を井戸から引き上げてやってよいということになっていましたが、厳格な立場では、井戸の中に家畜の食べ物であるかいばを投げ入れてやることだけが許されていました。ですから、キリストはこの寛大な立場の方を基礎にしてこのたとえを語っておられるのです。安息日だという理由で、自分の息子や牛が井戸に落ちたときに助けてやらないとすれば、それは神からゆだねられた息子や牛の保護の責任を果たさないことになり、明らかに悪いことであります。それと同じように、病で苦しんでいる人を安息日だからといって放置することは、キリストにとっては悪でありました。
キリストは安息日に病人をいやすことによって、大胆に律法主義という悪に挑戦なさったのでありました。ところが、律法主義の人々はこれに対して反論することができませんでした。キリストが「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と問われても、彼らは黙っていました。また、井戸に落ちた息子や牛のたとえを聞かされても、彼らはそれに対して答えませんでした。答えなかったというのは、彼らが全面的にキリストのおっしゃったことを正しいと認めたというのではなく、敵意を内に秘めてキリストをいかにするかと考えていたということでしょう。安息日における病人のいやしの問題は、以前からキリストと律法主義者が鋭く対立していた点の一つでした。ルカによる福音書6章11節によると、キリストが右手のなえた人を安息日にいやされたときに、律法主義者たちは怒り狂ってキリストを何とかしようと話し合ったと記されています。本日の箇所でも、キリストの挑戦を受けた律法主義者たちは、沈黙のうちにキリストに対してますます心をかたくなにしていったと想像されます。

律法主義という悪
律法主義という悪に挑戦するキリストの精神は、キリスト教の歴史の中で脈々と受け継がれてきました。使徒パウロは、律法主義に強く反対して「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(ガラテヤ5:4)と教えました。そして、16世紀の宗教改革者マルティン・ルターは『キリスト者の自由』という書物の中で次のように教えました。「戒めはなるほど指示しはするが、助けはしない。何をすべきかを教えはするが、そのための力を与えてはくれない。」「『あなたは悪い欲望をもってはならない』(出エジプト20:17)という戒めは、われわれがみな罪人であって、いかなる人間であっても、自分の欲することを行うさいに、悪い欲望なしではありえないことを証明している。」「あなたがすべての戒めを充たし、戒めが強制し要求しているとおりに、悪い欲望と罪から解放されたいと願うのならば、さあ、キリストを信じなさい。キリストにおいて私はあなたにすべての恵みと義と平安とを約束する。あなたが信じるなら、これを得るし、信じないなら、得ない。」(徳善義和訳)
 (2014年2月9日の説教より)