フィリピの信徒への手紙1:21-24

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。                 (フィリピ1:21)

 

「死ぬことは利益なのです」とは、一体どのような意味なのでしょうか? 「死ぬことは利益なのです」ということの意味を理解するためには、23節の後半に記されていることをよく踏まえなければなりません。すなわち、23節の後半には「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」とあります。つまり、この世の肉体が死ぬことによって、「この世を去って、キリストと共に」いることになるので、それがパウロにとっては「利益」であり「望ましい」ことなのです。これは、キリストと結ばれたクリスチャンの魂が、肉体の死によって天におられるキリストのもとに召されるということを意味しています。

同じような考え方は、パウロの他の手紙にも見られます。すなわち、コリントの信徒への手紙二の5章6節から8節には次のように記されています。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」「体を住みかとしている」というのは、この地上で肉体をもって生きているということです。人間がこの地上で肉体をもって生きている限りは、キリストと完全に一致することはできません。人間は、キリストに逆らう罪をもっており、完全にキリストの意思を自分の意思とすることができないからです。「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」とはそのようなことです。そして、「体を離れて、主のもとに住む」とは、クリスチャンの魂が地上の肉体の死の後に「主のもと」すなわち天におられるキリストのもとに召されて、そこで安らぎを得るということを意味しています。これらの聖書の箇所で教えられている信仰は、17世紀にイギリスで作られたウェストミンスター信仰告白の32章で次のように整理されて述べられています。

「人間の体は、死後、塵に帰り、朽ち果てる。しかし、不死の実在を持つ彼らの魂(それは死ぬことも眠ることもない)は、それを与えられた神に直ちに帰る。義人(正しい人−−筆者註)の魂は、そのとき完全に清くされて、最高の天に受け入れられ、そこで彼らの体の完全の贖いを待ちながら、光と栄光の内に神の御顔を見る。また、悪人の魂は、地獄に投げ込まれ、そこで大いなる日の裁きを受ける身となって、苦しみと完全な暗黒の中にとどまる。(後略)」 (松谷好明訳)            (4月27日の説教より)