ガラテヤの信徒への手紙6:11-14

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。 (ガラテヤ6:14)

 

キリスト教の信仰は、ユダヤ教を信じるユダヤ人の中から始まりました。しかし、キリスト教は十字架につけられたイエス・キリストを救い主として信じる点で、ユダヤ教とはまったく違っていました。ユダヤ教の立場では、十字架につけられて死んだイエス・キリストは神に呪われた偽の救い主であったからです。そこで、パウロはキリストの十字架だけを誇るということを上のように述べました。

パウロはかつて自分が旧約聖書の律法を完全に守っていることを誇りにしていました。しかし、天から語りかけるキリストに出会って自分の罪を知り、十字架につけられて死んだキリストによって自分の罪が償われたことを信じるようになりました。ですから、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と断言しているのです。それだけでなく、「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と述べています。この場合の「世」とは、この世の地位や価値観のことでしょう。かつてパウロはユダヤ教の教師として、ユダヤ人の社会でエリートの地位にありました。そして、旧約聖書の律法を厳格に守ることによって、人々から尊敬され自分でも正しい人間であると思い込んでいました。しかし、パウロはキリストの十字架を信じることによってそのような地位や価値観とはっきりと決別したのです。そのことを、十字架で死ぬことをたとえとして用いて「世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と述べているのです。つまり、クリスチャンとなったパウロは、ユダヤ人としての誇りを捨てて、キリストの十字架だけを誇りにしているということです。              (10月20日の説教より)