盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
(一テサロニケ5:2)
「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」というのは、明らかに、主の日に備えていない人の側に立った言い方です。すなわち、キリストを信じていない人々や、形の上ではクリスチャンであっても、それにふさわしい信仰生活をしていない人々にとっては、「盗人が夜やって来るように」キリストによる最後の審判の日が来るということです。「盗人が夜やって来るように」という表現は、備えをしていない人々にとって、「主の日」は予測不可能であり、しかも災いを受ける日だということを意味しています。この「盗人」のたとえは、キリストご自身が終わりの日について教える際に、用いられたものでもありました。すなわち、マタイによる福音書には、次のようなキリストの言葉が記されています。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:43-44)「人の子」とはキリストご自身のことであり、「人の子」が来るとは、キリストによる最後の審判を意味しています。
このように、備えのない人にとって、「主の日」すなわち最後の審判の日が「盗人が夜やって来るように」来るというのは、おそらく初代教会において、キリストご自身の教えとしてよく知られていたことであったのでしょう。そして、パウロもその教えを受け止めて、テサロニケ教会の信徒たちに教えたのでありましょう。初代教会の信徒たちの真剣な信仰生活の根底には、気をゆるめていると盗人が来るように主の日が来て、せっかくいただいた罪の赦しと永遠の命という救いの恵みを失ってしまうかもしれない、という緊張感があったのでしょう。キリストは最後の審判の日について「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」(マタイ24:36-37)と言っておられます。(11月13日の説教より)