テサロニケの信徒への手紙二1:5-7

神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。         (二テサロニケ1:6-7)

キリスト教はいわゆる博愛主義とは違います。しかし、キリスト教を求める人々の中には、キリスト教の博愛的な精神に引かれる人々も多いのは事実です。そのような人々にとって、神様が迫害する者たちに終わりの日に苦しみもって報いられるという教えは、決して耳ざわりの良いものではないでしょう。また、この世で人々が愛し合い平和な世界になることが信仰の主な目標であると考える人は、来たるべき神の国すなわち来世における休息を最終的な目標とするように教える聖書の言葉には、反発を覚えるかもしれません。そして、聖書の中でも本日のような箇所はあまり大切なところとは考えないで、現代のクリスチャンにとっては重要な意味を持たない特殊な教えが書かれているところと考える人もいることでしょう。しかし、それは決して正しい考え方ではないのです。

世界の歴史に目を向けますと、近代の17世紀から18世紀に、人間が理性の力を用いることによって自立した人格の共同体という世界を作ることができるという人間観・世界観が広まりました(『世界宗教大辞典』「啓蒙思想」坂部恵)。いわゆる啓蒙主義という思想です。私たちは子どものときからその啓蒙主義に基づいた教育を受け、大なり小なりその思想の影響を受けています。ですから、私たち現代の人間は、最後の審判によって人間の救いが完成し、来たるべき世における報いこそが最終的な救いである、というキリスト教本来の考え方を受け入れるのが難しい心の状態になっているのです。しかし、キリスト教は本来終わりの日を待ち望む信仰を教えるものです。宗教改革者のカルヴァンは、本日の聖書の箇所を引用しつつ「これこそ、まことに、われわれの唯一の慰めである。もしも、この慰めを奪われるならば、われわれは落胆せざるを得ないか、それとも、この世のむなしい慰めに魅いられて、われとわが身を滅ぼすかそのどちらかである」とまで記しています (『キリスト教綱要』3篇9章6、渡辺信夫訳)          (12月4日の説教より)